この記事へのコメント
たぶん作者は「耽美な絞首刑」という図を想像して一首にしたと思われますが、
前川佐美雄の「うつつならねば泣いて見てゐし」をどうしても想起します。

言葉が大げさすぎてちょっと空回りの感が否めない、というのが率直な感想です。
Posted by 松木 秀 at 2010年04月08日 23:49
大樹から蔓垂れさがり夕映えに見上げておりぬわが絞首刑

言葉が一般的で空疎なんでしょうね。自分の本当の言葉ではない。絞首刑に「わが」がついているだけで、ばれてしまう。

言葉を持っているのですから、本当の思いを出した歌を期待しています。
Posted by 長谷川知哲 at 2010年04月11日 18:58
西王です。かなり厳しいコメントをいただいている作品ですね。

私は、ビリー・ホリデイの唄った『奇妙な果実』というジャズの名曲を連想しました。アメリカ南部、黒人をリンチして首を縛り、ポプラの木に吊るしてある情景を唄った歌です。

この大樹というのは、おそらく、杉やヒノキのようなものでなく、枝を横に大きく広げた落葉樹でありましょう。蔦は木を巻き登っていくものですが、巻き登って行き先がなくなると、枝から垂れ下がることもあります。この垂れ下がっている蔦を、奇妙な果実を吊るしている縄だと見做した作品だと私は読みました。

たしかに、奇妙なところがこの作品にはあります。あたかも「蔦」が「わが絞首刑」を見上げているような文脈。もちろん、位置関係からすれば、「私」が「わが絞首刑」を見上げているということでありましょう。

つまり、垂れ下がった蔦には「奇妙な果実」はぶら下がっていない。そこに見えるのは未遂の、あるいは幻影としての「わが絞首刑」のさまだ、というところでしょう。

この作品の、かすかに陰鬱な思いを、私は個人的に理解します。

なお、余計な薀蓄(笑)ですが、日本の場合、「首」を吊るしたのは楝(あふち・おうち=センダン)の木でありました。
Posted by 西王 燦 at 2010年04月14日 20:36
「絞首刑」という言葉が強く、日常生活であまり出てこないせいか、批判的なコメントが目立ちますが、私はそれほどとは思いませんでした。
人生、切羽詰まったときに枝振りのいい木を探しながら上を向いて歩いていた、なんて話は無頼で知られる人の武勇伝で耳にすることもあります。囲碁の藤沢秀行名誉棋聖なんかそのクチです。
もし、自分がそんな立場で本当に首を吊ったらどうなるだろう、と第三者的に眺めたときの一首かと思いました。
西王さんのおっしゃる「幻影」「未遂」という言葉がぴったりきます。
その感情、分からなくもないですね。春という季節がそうさせているのかもしれません。
Posted by 村田馨 at 2010年04月15日 13:03
「わが」は不用かと思う。
ここは逆に、不特定多数の存在を絞首刑に暗示させれば、それでいいではなかろうか?
詰まるところ真に吊るされるべき人間はこの世の中にゴマンといるわけで、自分もまたその内の一人だろうという諦めのカタルシスならば、私も同感出来る。
ここでは自ら一人をあえて粛清する必要もなく、無差別によりアナーキーな気分を味わってみたい。
また一方で、自然破壊を繰り返し地球温暖化を推し進める人類全体に対する、自然の側からの審判というアニミズムへの転換も可能かと思われる。
この場に至って私もヤットコサまともな批評が出来るようになったことであろうか。
Posted by 倉益 敬 at 2010年04月15日 18:23
絞首刑という残酷な刑罰の名ゆえか、今のところ女性がどなたもコメントされていませんね。

一読したときは、樹木に蔓やひも状のものが垂れ下がったさまで、首吊りを連想するという既存のパターンの歌に思えました。
それにしては結句の「わが絞首刑」とまで言われてしまうのは、私も最初はまさに松木さんの「空回りの感が否めない」に同感したのです。

みなさんの評を拝読し、もう少し深く読み込んでいくと、現代の日本においてはどんな極悪人であろうが、絞首刑に処されることはない中、あえて自分自身を粛清するという歌と読みました。
もちろんそれは幻影・未遂である、という西王さんの言葉に同感します。

不特定多数の人類であるとか、まったく別の歴史上の人物に転換して詠むというのもまた別の歌としては成り立つし、それはそれで良い歌になると思います。
だけど、そうすると作者の詠いたいこととは離れてしまうのかな?と思います。
Posted by 三島麻亜子 at 2010年04月18日 09:35