この記事へのコメント
「端役」は、仕事上の役目の比喩だと思います。主役にはなれなかつたけれど、端役に等しい役目にもそれなりの重要性がある。失意の心を励ますようにゆつくり回り道をして帰る途上、目に染みるような木蓮の白と香り。そのように読みました。
Posted by 槙村容子 at 2010年04月08日 11:57
 もちろん実生活での感慨を述べたものでしょうが、わたしはこの「言葉」を、演劇などで与えられる台本の「台詞」のように受け止めました。たとえエキストラに等しいような端役であっても、台詞がある。台詞がある以上、その役割の意味は重い。もちろんその台詞の言葉に意味はなくても、それなりに重い。そういうことを実生活に重ねながら、たとえ「それなり」であっても役割に対して誠実に、ひたむきに生きていこうとする気持ちがある歌だと思いました。
 「廻りの道ににほふ木蓮」は前半のもたつきに比べあまりにもきれいに処理しすぎている感じもありますが、春に先駆けて咲き、忘れられる木蓮へのいとしさが印象的です。
 「廻りの道」の意味ですが、わたしは自分の身めぐり、と受け止めました。解釈のぶれを余韻ととるか傷ととるかはそれぞれでしょうが、わたしはこの歌では許容内だと思います。
Posted by 西橋美保 at 2010年04月10日 10:50
上句の深い思いと、下句の木蓮の匂いがする道とが、巧くバランスがとれていると私は思います。寺山修司に「自分の人生では自分が主役。でも同時に、他人の人生の脇役でもある」という言葉を思い出したりしました。佳作だと思います。
Posted by 藤原龍一郎 at 2010年04月15日 12:24
 演劇の方だと思いました。「端役」と「言葉」から、そう思いました。もっとも、演劇だったら「台詞」にしている可能性はあるのですけれど。
 ほかの方の評を読んで、人生を演劇になぞらえている、というのもなるほどと思いました。その場合には「端役」は誰なのか、それはどうして「端役」なのか、「端役」をどう思っているのか、また、「それなりにおもき言葉」についても、読み筋のほりさげをしたくなります。そうしないと、大多数共通項的なイメージに引きずられてしまう。
 構成としては、上の句と下の句のぶつかりあいですね。木蓮は、どうしても何かを感じてしまう木ですね、名前からも姿からも。
「廻りの道」のイメージは、わたしは演劇として読んだので、劇場のまわりかな、と。・^^;;; 人生になぞらえていたばあいは、これは、おおまかに、作中主体の周囲の環境でしょうか。
Posted by 來宮有人(きのみやあると) at 2010年04月15日 20:18
最初は気がつかなかったのですが、みなさまのご意見を読むうちにだんだん心ひかれる歌だとしみじみ読みました。
演劇をうたいながら、奥に人生を思わせる巧い作りだと思います。「廻りの道」は舞台の廻りの花道や客席などを思わせます。上句と下句の距離は適当、良い意味でのいい加減になっています。
Posted by 近藤かすみ at 2010年04月16日 00:20
評判がいいですね。

前評以外に一言だけですが、
初句には反対です。「なれど」の休止具合と濁音の重さが賛成できない。
ここは5音にしてもらうと、下の句がよりきびきびしてくる。
Posted by 長谷川知哲 at 2010年04月17日 08:22
私は初句はこのままの方が良いと思います。思いの込められた上の句は、軽快なリズムにするより字余りの少し沈んだ響きにする方が、歌の内容・雰囲気に合うのではないでしょうか。
Posted by 槙村容子 at 2010年04月18日 11:10
端役なれどそれなりにおもき言葉あり廻りの道ににほふ木蓮

「近勝り」のことばがありますが、
「読み勝り」という言葉があるなら
このお歌がまさにそうであると思います。

一読、さりげなくよんで通り過ぎました。
何回も読むうちに
うたの深さがしみてくる。
最終日の今、しみじみと
いいなあと感じています。

上句は、私は動かないのではないかという意見です。
ためしに初句を五音にしてみると

端役にもそれなりにおもき言葉あり廻りの道ににほふ木蓮

ゆったりとした印象がうすれ、
やや浅い狭い印象になってしまう気がします。
一歩ちがうと、説教臭くなる危険さえあります。
もっと上手い推敲があれば違うかもしれませんが。

「なれど」であるために、
屈折とたゆたいが出ている。
このたゆたい感があるので、
作者が自身を「端役」に重ねている印象が強まります。

「木蓮」は
紫木蓮ですね。


今回読ませていただけて
嬉しかったお歌のひとつです。
Posted by 梶崎恭子 at 2010年04月25日 17:48