この記事へのコメント
手練(てだれ)の“巨匠のノリ”を感じさせる、重厚で堂々たる調べの雄渾な一首。

もし、小池光氏の作品でしたと言われても、僕は疑わないと思う。

同義反復的な言い回しが、どことなく祝詞(のりと)などのアニミズム的な呪術性を連想させて、桜にまつわるイメージに適合している。

・・・それにしても「三千の名を授けられたさくら」とはどんなものか、実物を見てみたいものだと思う。

Posted by 坂本野原 at 2010年04月06日 15:45
この作中主体である「父=われ」は、三千のさくらの樹に名前をつけたのであろうか。
それだけを意味するにしては調べが雄大すぎる。もっと深い意味があるようだが、
私にはわからなかった。

前川佐美雄の「三千の威儀」の歌を想起したが、これは突拍子もない
飛躍ではないだろう。

概して「調べの雄大さ」と内容がつりあっていない感を受けた。
(そこの落差も短歌の面白いところではあるが)
Posted by 松木 秀 at 2010年04月08日 16:33
〈もの〉には、名付けられることによって存在し始めるといった面がありますから、「三千の名を授けたる」というのは、「三千の名のさくら」を創造したということでもあります。それが「散りかふ」光景は、壮大以外のなにものでもありません。それを見ている「父われ」は、このとき特権的な〈父神〉の位置にあるわけです。
一方、名前を付けるというのは、誰にでも出来る最小の創造行為とも言えるわけで、〈歌を詠む〉ということにも似ています。私も一度、自分の創造したものが満開になって「散りかふ」光景を見てみたいものです。
「三千の名」というのは、数の多さを表しているのだと思いますが、それは桜のさまざまな属性を数え、唱え上げるということかも知れません。名を唱えるというのは、それを讃えるということでもありますから。ちょっと深読みし過ぎたかなとも思いますが、いかがでしょうか。
Posted by 大室ゆらぎ at 2010年04月08日 21:25
もう一つ確信が持てなかったので、遠慮して言いよどんでおりましたが、この歌はやはり、「言霊を信じ、疾駆する歌人」、「頼みの綱の佐佐木幸綱」(塚本邦雄)の本歌取り、ないしはオマージュの類いであろうと思います。

言うまでもなく、リスペクト(尊敬)を籠めた本歌取りやポスティーシュの技法は、歌聖・藤原定家や奇才・藤原龍一郎氏をはじめとして、和歌・短歌の世界では完全に許容されておりますし、むしろ詩的許容に留まらず、新たなる創造/ルネサンスのモメント(契機)として作用してきたことは、釈迦に説法というべき事実でありましょう。

・・・畏れ多くも、私も月例作品でちょくちょくやらかしておりまして、ほとんどボツになっております(笑)


空より見る一万年の多摩川の金剛力よ、一万の春 ――歌集「アニマ」

梅の木に無数の梅の花噴けりうつつしぶきているにあらずや ――「火を運ぶ」

父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色(こんじき)の獅子とうつれよ ――「金色の獅子」


・・・今や歌壇の長老・大御所格である佐佐木氏は、歌集「アニマ」では、そのタイトルの示唆する通り、アニミズムを明確に意識したと、自ら言明しておられます。

また、予め家父長制の喪われた時代にあって、一貫して「父性」を追求しておられることも、皆さまご存知の通りです。

一種の「父性の抵抗」のような主題が、氏の大きなモチーフになっていると拝読・観測しています。

この作者は、こういった「幸綱調」を内面的に十分咀嚼・消化した上で、よりシンプルで明朗・平明でありつつ、悠揚迫らぬ柄の大きいイメージと言葉の世界を構築し得ているのではないかと思う次第です。
Posted by 坂本野原 at 2010年04月18日 16:02
なんかこの歌、すごく深いところまで掘り下げられていますね。
私はもっと単純にこの歌を読んだのですが・・。
父が子に「三千の名を授けた」だけのお話ですね。
三千(さんぜん)も子供を作るなんて、とても人間技とは思えない凄まじい繁殖力・・なんてことは先ずありえないことでしょう。
三千(さんぜん)と読むから誤解が生じるわけで、本当は三千(みち)ではないでしょうか?
短歌の定型にあてはめた場合、三千(さんぜん)と読まざるを得ないというだけのことかもしれません。
子供が出来て(おそらく三月)その命名にあたり父はいろいろ考えた末に男なら伊藤三千夫、女なら三千子という結論にたどり着いた。
その記念に桜の苗木を庭に植えたのだが、あれから幾星霜・・今ではりっぱな桜の木に成長して今年も見事な花を咲かせてそして今、ハラハラと散り始めている。こんな内容の作品ではないかと思いました。
Posted by 倉益 敬 at 2010年04月19日 07:08
私も倉益さんと同意見です。女の子が生まれて「三千(みち)」という名前をつけ、その記念に桜の木を植えた(桜の記念樹は女の子にふさわしいかなと思って)。その桜の花が散る風景。でも、前評者があまりにも壮大な解釈をしているので、単純すぎる読み?と自信が無くなりましたが、少し安心しました(^o^)。
Posted by 槙村容子 at 2010年04月19日 17:45
父われが三千の名を授けたる三千の名のさくら散りかふ

短歌を読むとき、どうしても定型にはまるように読むのは歌人、短歌愛好家の習性だと思います。よって、私は「さんぜん」と読みました。
父である作者(われ)は、桜の木の三千本ある山を所有していて、それぞれに名前をつけて、愛し育んできた。その三千本のさくらが散る風景・・・と解釈しては、浅いのでしょうか。三千本は数が多すぎるので、愛着のある特定の木に「三千(さんぜん)」と名付けたとも読めます。歌自体は大きい風景を読んでいて、壮大な印象です。
Posted by 近藤かすみ at 2010年04月19日 19:31
西王です。

父われが三千の名を授けたる三千の名のさくら散りかふ

この作品の「三千の名」「三千の名」という同語反復、いわゆるトートロジーは解釈に先立って徒労感を感じさせます。まあ、これが作者の狙いでしょうが。

さて、倉益さんもお書きのように、三千人の子沢山というのはまず無理でしょう。
貝殻節には○○が変ればまた乗るぜ〜という元歌もありますが、三千はアラブの王様でも無理。
そこで、植村さんや倉益さんは、三千(みち)という女の子ひとりの記念に植えた一本の桜と解釈しました。

これは、とても冷静で生真面目な解釈ですが、読み手に徒労感を与えるようなトートロジー、あるいはしつこい同語反復部分は、音数率からしても「さんぜん」と読ませることを要求しています。

大室ゆらぎさんがお書きのように、三千というのは数の多さを表すのでありましょう。三千世界、という言葉がありますから。

実数として三千かどうかは知らないがそれに近いくらいの数の「名」をおそらくはソメイヨシノの木(苗木)につけた男、それが「父われ」である、と、律儀に理屈っぽく解釈してみます。

ソメイヨシノというのは一本の親木から採られた純潔種。それぞれの「子」は見分けがつかない。作中人物は、妻子を省みずソメイヨシノの苗木を育ててきた造園業の男。偏執狂的なところがあって、一本ごとに好みの名を付けた、と。

作者は不本意でありましょうが、こういう読み方もできる、ということです。
Posted by 西王 燦 at 2010年04月19日 20:04
それはそうでしょうね。皆さんがおっしゃる通りです。

この歌に表わされた「意味内容」は、(1)「父である私が名付けた『三千(みち)』という我が子と同じ名の桜が散り交っている」、または、(2)「一本の桜の木に『三千』と名付けて、その桜が・・・」、(3)「三千本(無数)の桜に名を付けたパラノイド(偏執性)気質の男がいて・・・」というような意味であり、どれが正解かは分かりませんが、たぶん、そのどれかが作者の真意なのでしょう。

私も、その点については否定していません。純テキスト的な読み方としては、全くその通りです。

僭越ながら、別の観点・視座から批評させていただいた次第です。

・・・正直、ちょっと深読みしすぎたかな〜?とは思っていますが(笑)
Posted by 坂本野原 at 2010年04月20日 12:08
解釈は自由、とは言うけれども、あまりにかけ離れたように見える解釈を施すのもどうなのだろう。
「三千」はふつうに、とてもたくさんの数を表す語として「さんぜん」と読めばそれで十分なのではないだろうか。
筆のすべりと言うか、三千人もこどもを作るというのは在りえない光景ですよね。荒唐無稽すぎるし、冗談としても、この場にそぐわない気がしますね(笑。 べつに、冗談を言っても構わないんですけどね。
 父われが三千の名を授けたる三千の名のさくら散りかふ
素朴に読もうとすれば、この作者は桜の咲きかう季節にこどもを授かった。女の子と思うのが妥当ではないかと思いますが。
で、とてもたくさんの桜の中で、その圧倒的な生命の躍動美に感銘を受けた。
この世に生まれ出た、なによりも大切な美しいわが子に三千の名をつけても言い尽くせない、三千の名を持つかのようにそこにあるわが子と桜を詠んでいるのではないでしょうか。
Posted by 花森こま at 2010年04月22日 22:47
この歌の魅力は、調べにあるのではないかと思います。
その調べはどこから来ているのかというと、「父われが…授けたる」と、いかにも大きな構えで歌いだしたところ、そしてまた「三千の名を」「三千の名の」という繰り返しなど、すべては言葉の選択(あるいは多言を弄していないこと)によるわけです。
作者の本意(この歌の発想のよってきたるところ)がどこにあったにしても(皆さんからいろいろと解釈が出たとおり、この歌からだけでは確定できないようです)、こうした韻律の力というものは紛れもないわけで、そうした言葉の力というものを感じさせてくれる器の大きな歌であると考えます。
Posted by 大室ゆらぎ at 2010年04月24日 19:24
みなさん、たくさんのコメントをありがとうございました。

「三千(みち)」という女の子の名前説という突飛な読みには正直驚きました。
元々のイメージとしては、三千本の桜の樹ではなく、
お気に入りの一本の桜の樹が徐々に花を咲かせ、満開となり、
やがてたくさんの花びらを散らしてゆく様子が念頭にありました。

僕自身、「三千本の桜の樹」というふうに読まれる危惧は持っていて、
「さくら」は「桜花」にしようか最後までずいぶん迷いました。
でも、「散りかふ」とあるので「桜の樹」ではなくて
「桜の花びら」と解釈してくれる人もいるかと思い、
「……さんぜんの……さづけたる……さんぜんの……さくら……」と
「さ」音の連なりの心地良さ、調べを優先し、意味の伝達は二の次にしました。
子供のいない中年独身男の桜の下での戯れ、哀れな夢想としては、
三千本の桜の樹に名前を授けるくらい壮大なほうがおもしろいかもしれませんね。

惹かれる歌もたくさんあって、
久しぶりにネット歌会に参加できて楽しかったです。
ありがとうございました。
Posted by 伊波虎英 at 2010年04月29日 18:00
三千(みち)という女の子なんてアンポンタンな解釈をしくさったのは、いったいどこのドイツ連邦共和国。
確かきっかけはワタクシでしたかな?
ワタクシこと・・・ミドルネームはメリー。ケイ・メリー・クラマス(Xmas)でした。
大変失礼をいたしました。以後、姿をく・ら・ま・す事にいたします。
それでは皆さん「さらば涙と言おう」
Posted by 倉益 敬 at 2010年04月30日 08:39