この記事へのコメント
鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏の樹が、三月に強風のために倒れたことを詠っていて、一読意味はよくわかります。素直な心情をそのまま詠ったので、気持ちは伝わりますが、それ以上の一歩を踏み込むことを、読者は期待しているのではないのでしょうか。
Posted by 近藤かすみ at 2010年04月09日 16:19
一種の機会詠なわけですが、前評者がお書きになっているように、もう一歩の踏み込みがほしいと私も思います。「神はいかが御座(おわ)すか」という下の句が、作者としては機知の見せ所であったのでしょうが、もう一ひねりして、神様自身の視点から発想してみたりするのも、ものたらない一歩のための方法だと思います。
Posted by 藤原龍一郎 at 2010年04月15日 12:16
さいざますか・・・突然の自然災害に、長年住み慣れたネグラを奪われてしまい、いきなりホームレスになった神様も、今頃はきっと途方にくれながらご苦労が絶えないことでしょうね・・・ってこれは何?。
仮にも神様に対して、そのような同情心をおこすこと自体、少し変な感じが致しますが・・・錯覚か?。
この歌では、神の存在が庶民レベルまで引き下ろされて、庶民と同等な立場に置かれている。
これはこれでスットボケた味わいがあるように思う。
いわゆる天然ボケというジャンルに属する作品だろう。
Posted by 倉益 敬 at 2010年04月16日 19:07