この記事へのコメント
うちの近くの大型ショッピングモールにも駄菓子屋があります。
昔ながらの雰囲気を作り出そうとしているようですけど、
垢抜けた巨大な建物にテナントの一つとして入っているせいか、
子供の頃町中にあった駄菓子屋(「当てもん屋」と呼んでいました)
を知っている者からすると、何か異質な感じがして違和感を覚えます。
この歌の作者もそういう違和感や、
郷愁を押し付けられているような不快感を持っているのでしょう。
「親切」に強い皮肉が込められている
「親切な郷愁」というフレーズが秀逸です。
ただ、結句の「おなじみ」というのは蛇足で、
少し歌が俗っぽくなってしまったのが残念です。
Posted by 伊波虎英 at 2010年04月06日 12:03
設定が現代の一面を捉えています。
普通なら「親切な応対」「親切な接客」とするところを「親切な郷愁」としたところが面白い。わたしは「おなじみ」もユーモアを出していて悪くないと思います。
Posted by 近藤かすみ at 2010年04月08日 01:41
先行評にあるように、「親切な郷愁」に皮肉が込められていると思います。
「おなじみ」については、「毎度おなじみの…」古紙回収のフレーズが浮かんできて、その陳腐さがまたアイロニーになっていると思います。
Posted by 弘井文子 at 2010年04月10日 18:57
読むほどに完成度の高いお歌だと
思わせられました。

ショッピングモールの中の駄菓子屋は親切な郷愁でおなじみ

「親切な郷愁」の皮肉。
至れり尽くせりで「郷愁」を感じられるようにお手伝いしてくれるんですね。
現代の「泣きたい時に」聴く歌とか、読む本とか、と同類のもの。

鉈の切れ味のお歌ではない・・・でも作者は、そこを狙ってはいないのでしょう。
鉛筆家削りの薄刃でもない。


「親切な郷愁」をうすうす偽ものと知りつつ安易に受け入れている時代、それを生きている我々。
「おなじみ」は、カエスカタナ。それと気付かせないように、慎重に、我々の肉をサックリ切っているように思います。
Posted by 梶崎恭子 at 2010年04月13日 01:18
商店街再興のため、ひとつ空き店舗を改造し、たまに駄菓子屋の店番をしてます。店長も私も駄菓子世代ですが、店長本気です。

それが親切な郷愁になってしまうのか、サービスあふれる異空間になるかは、わかりません。郷愁を売るんでなく、今も食べたい駄菓子売って、時々食べてます。

三丁目の夕日は映画の中のもので、そもそも嘘です。脚色してあると言うのが正確です。残念ながらそのころを知らないので、脚色は見えてしまいます。
Posted by ふゆのゆふ at 2010年04月13日 17:18
 じつは最初に読んだとき、町中にあった駄菓子屋さんが、再開発かなにかでテナントに入ってしまったものだと思った。^^;;; 近所の日暮里は、駄菓子問屋街が再開発されて、何軒かビルの中に入っているのです。

 などとボケてしまいましたが、みなさんの鑑賞文を読んで、なるほど納得しました。とくに近藤かすみさんの「ユーモア」や梶崎恭子さんの「カエスカタナ」はよかった。

 下の句「親切な郷愁でおなじみ」は音数こそ77ですけれど、実際に読むときは「親切な郷愁で」「おなじみ」というように、リズムが文にひきずられると思います。結果、10 4の波となって、10の早口による盛り上がりと4の欠落というか、早仕舞いされてしまったような感じに言い切られることになって、批評性に効果をあげていると思います。
Posted by 來宮有人(きのみやあると) at 2010年04月14日 20:22