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2010年04月06日
第1回ネット歌会詠草/5
やわらかに蕾ほころぶこの町を独り歩めば風吹きすさぶ
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この記事へのコメント
ちょっと、一首の焦点がしぼりきれなかった感じがします。
「ほころぶ」「歩めば」「吹きすさぶ」と三つの動詞が、おたがいに弱めあっているのかもしれません。何の蕾かも、できれば歌に入れてほしかった気がします。
Posted by 藤原龍一郎 at 2010年04月07日 20:45
どこかちぐはぐな印象があります。
思うに、「やわらかに」と「吹きすさぶ」はベクトルが反対な言葉ですので、
同時に一首に入れ込むにはちょっと無理があるかなあと思われます。
結句を「過ぎてゆく風」とか何かに変えるだけでもだいぶん違うのではないかと。
(変えただけではたんにつまらない歌になってしまいましたが)
Posted by 松木 秀 at 2010年04月08日 02:18
この歌の場合、何の花の蕾か解からないのは歌を鑑賞する一番のネックになっている気がします。
「やわらかに蕾ほころぶ」は春のイメージなのに、「風吹きすさぶ」はどちらかと言えば冬のイメージ。
情景がうまく絞れません。
藤原龍一郎さんも書いておられますが「ほころぶ」「歩めば」「吹きすさぶ」この3つの動詞はは意味が打ち消しあってしまっているようです。
たとえば春の花の蕾とわかるように具体名を入れて、作者が「そんな命の溢れる季節なのに一人町を歩く」に焦点を絞ってみたら。
元歌では「吹きすさぶ」の言葉が強くて、作者が一人で町を歩く光景のほうが印象が薄くなっています。
Posted by 海野 雪 at 2010年04月11日 20:52
やわらかに蕾ほころぶこの町を独り歩めば風吹きすさぶ
「この町」には、春の気配が満ちて華やいでいるのに、自分だけはその空気になじめずに疎外感を味わっている。という気分を詠んでいると思いました。「風吹きすさぶ」という言葉に作者の疎外感が表現されていると感じます。
2句までの表現から
啄木の
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
を連想しました。
「石をもて追はるるごとく」出郷した啄木が、それでも故郷を懐かしんでいるわけですが、「蕾」の歌の作者にとって、「この町」が故郷かどうかはわかりません。ただ、この町に対して、執着する気持があるからこそ、疎外されている意識を詠んだのでしょう。
「風吹きすさぶ」をもっと、上の句との明確な落差を示す言葉にしていれば、疎外感が強く出てよかったと思います。
Posted by 太田賢士朗 at 2010年04月12日 02:14
上句は暖かい雰囲気、下句は厳しい現実を詠っていて対比は感じられますが、具体的なものがないので、歌が弱くなっているかと思いました。
Posted by
近藤かすみ
at 2010年04月12日 20:08
「やわらかに蕾ほころぶ」と「風吹きすさぶ」は春と冬、相反する言葉で弱めあっているとのご意見がありますが、対比によってかえって強めあうとも思えます。相反するものがせめぎ合っての自然の移ろい、人間世界も同様。ベクトルが反対で無理があってもわずか31文字の無理は承知の中、矛盾、飛躍の非合理を拒んでは歌は成り立たないと考えます。韻文は抽象なのではないでしょうか。この歌の持つ疎外感には大変共感をしました。
Posted by 吉原 at 2010年04月13日 10:39
上の句と下の句の対比を表したかったのだな、と思いました。ただ、この歌が、すっと入ってきて感じるかというと、感じません。
読んだ印象としては、作者の中にあるイメージがあって、それを叙した、という感じがします。
作者がどんな感慨を秘めていて、それがつたわるような措辞が求められるのだと思います。
かといって、今わたしは何も思いついていないのですけれど。^^;; すみません。
Posted by 來宮有人(きのみやあると) at 2010年04月13日 21:59
動詞に注目すれば藤原さんに同感。
近藤さんが、「具体的なものがない」と指摘しておられますが、別な言い方で言えば「(やわらかに)蕾ほころぶ」も「風吹きすさぶ」も慣用的な表現なのが弱いのでしょう。特に「(やわらかに)蕾ほころぶ」は、送辞や答辞に使われる、あるいは、手紙の時候のあいさつに多用される表現で陳腐です。
というわけで、短歌と慣用句・慣用的表現は相性が悪い、ということを考えさせる作品だとおもいました。
Posted by 山寺修象 at 2010年04月13日 22:08
作品に共鳴し得るかどうかというのは個人の問題と言ってしまえばそこで終わってしまう。
この歌の場合、確かに、藤原さんの言われるように一首の中にいくつもの動線が混在し、うるさく感じられるのは致し方ないところだが、それは小さな欠点と言えなくもないと思う。
「蕾ほころぶ」に対して、具体性がないと言う意見があるけれども、ここで、たとえば「桜」などの具体的な花の名を挙げればよかったのだろうか。
わたしは俳人なので、「蕾ほころぶ」で、十分に春の気配を感じ取ることが出来るので、これで構わないと思う。
そのような、生命の輝きにあふれる街を、疎外感を抱いて歩いていると言いたいのだろう。
全体に、「ムード歌謡」っぽくて、その辺りはわたしは苦手(笑。
もし、陳腐と言うならば「独り歩めば風吹きすさぶ」の部分にそれを感じますね。ここをもっとインパクトある表現にしてくれればと思う。
慣用句であっても、むしろ、慣用句によりかからせて表現するという在り方も可能と思うので、それだけで陳腐とは断罪したくない。
むしろ、具体性がない、などのように、簡単に決め付けてしまうのは、同じ表現者として、やや、かなしい。もう少し親切に批評しましょう。
Posted by 花森こま at 2010年04月13日 22:55
俳句と短歌では、掴むものと、アプローチが違うと思います。575の俳句と57577の短歌では、その長さの違いから、さまざまな違いが生まれて、それぞれの形式に適合した「何か伝えたいもの」と「アプローチ」があるのだと思います。
もちろん、慣用句がまったくダメというわけではないと思います。むしろわたしも、慣用句だけでなく、もっといろいろなものの禁忌は、挑戦してみてよいと思っています。結果、よいものができればよいと思っています。
慣用句を使用してよい表現をする、ということはもちろんありえるのですが、ここでは慣用句によって感じ入る作品になっているとは思えないのです。もちろん、人によっては感じ入る方もいらっしゃると思います。それはそれでよいと思います。そして、この作品は、あえて慣用句を効果的に使用したようには思えません。
最初に、盲目的に慣用句はダメと言ってはいけないと思いますが、読み込んでいった結果での発言は、率直でよいと思います。たしかに「陳腐」という言葉は、断罪するような感じもしますが、評内容のすべてを断罪としない方がよいと思います。「短歌と慣用句・慣用的表現は相性が悪い」という部分は、この作品の問題点のうちの一つを端的に表していると思います。
蛇足ながら、短歌で慣用表現を使用するためには、かなり的確な措辞と欠落によるさらなる短詩化とそれを支える韻律が必要かと思います。
Posted by 來宮有人(きのみやあると) at 2010年04月14日 10:09
わたしは俳人だから俳人としての考えを述べただけなので、歌人に同じように感受せよと思っているわけではないのです。ただ、それぞれの立場から、いろいろな読みがあっていいと思っているだけです。
そして、誰かが断罪しているという意味ではないですが、そのようにとれたらごめんなさい。自分への戒めとして書いています。
ただ、コメントを長く書けばよいということではないですが、分からなかった、よいと思わなかった、など、1〜2行で片付けてしまう意見の方があって、それは、ちょっと思い遣りに欠ける気がしただけです。どなた、とは言いませんが。そういうことではなく、批評、鑑賞する時の態度として、思ったことを述べただけです。
Posted by 花森こま at 2010年04月14日 14:12
花森さんの「いろいろな読みがあっていい」と「ただ、コメントを〜批評、鑑賞する時の態度として、思ったことを述べただけです。」のところを、先の花森さんの文章に感じておりまして、ただそれが、少し埋もれてしまっていたように思いましたので、残念に思っていました。
あらためて、花森さんのご意見が聞けて、うれしく思います。
Posted by 來宮有人(きのみやあると) at 2010年04月14日 19:49
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「この町」には、春の気配が満ちて華やいでいるのに、自分だけはその空気になじめずに疎外感を味わっている。という気分を詠んでいると思いました。「風吹きすさぶ」という言葉に作者の疎外感が表現されていると感じます。
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読んだ印象としては、作者の中にあるイメージがあって、それを叙した、という感じがします。
作者がどんな感慨を秘めていて、それがつたわるような措辞が求められるのだと思います。
かといって、今わたしは何も思いついていないのですけれど。^^;; すみません。
近藤さんが、「具体的なものがない」と指摘しておられますが、別な言い方で言えば「(やわらかに)蕾ほころぶ」も「風吹きすさぶ」も慣用的な表現なのが弱いのでしょう。特に「(やわらかに)蕾ほころぶ」は、送辞や答辞に使われる、あるいは、手紙の時候のあいさつに多用される表現で陳腐です。
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この歌の場合、確かに、藤原さんの言われるように一首の中にいくつもの動線が混在し、うるさく感じられるのは致し方ないところだが、それは小さな欠点と言えなくもないと思う。
「蕾ほころぶ」に対して、具体性がないと言う意見があるけれども、ここで、たとえば「桜」などの具体的な花の名を挙げればよかったのだろうか。
わたしは俳人なので、「蕾ほころぶ」で、十分に春の気配を感じ取ることが出来るので、これで構わないと思う。
そのような、生命の輝きにあふれる街を、疎外感を抱いて歩いていると言いたいのだろう。
全体に、「ムード歌謡」っぽくて、その辺りはわたしは苦手(笑。
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むしろ、具体性がない、などのように、簡単に決め付けてしまうのは、同じ表現者として、やや、かなしい。もう少し親切に批評しましょう。
もちろん、慣用句がまったくダメというわけではないと思います。むしろわたしも、慣用句だけでなく、もっといろいろなものの禁忌は、挑戦してみてよいと思っています。結果、よいものができればよいと思っています。
慣用句を使用してよい表現をする、ということはもちろんありえるのですが、ここでは慣用句によって感じ入る作品になっているとは思えないのです。もちろん、人によっては感じ入る方もいらっしゃると思います。それはそれでよいと思います。そして、この作品は、あえて慣用句を効果的に使用したようには思えません。
最初に、盲目的に慣用句はダメと言ってはいけないと思いますが、読み込んでいった結果での発言は、率直でよいと思います。たしかに「陳腐」という言葉は、断罪するような感じもしますが、評内容のすべてを断罪としない方がよいと思います。「短歌と慣用句・慣用的表現は相性が悪い」という部分は、この作品の問題点のうちの一つを端的に表していると思います。
蛇足ながら、短歌で慣用表現を使用するためには、かなり的確な措辞と欠落によるさらなる短詩化とそれを支える韻律が必要かと思います。
そして、誰かが断罪しているという意味ではないですが、そのようにとれたらごめんなさい。自分への戒めとして書いています。
ただ、コメントを長く書けばよいということではないですが、分からなかった、よいと思わなかった、など、1〜2行で片付けてしまう意見の方があって、それは、ちょっと思い遣りに欠ける気がしただけです。どなた、とは言いませんが。そういうことではなく、批評、鑑賞する時の態度として、思ったことを述べただけです。
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