この記事へのコメント
きちんと定型で詠まれた爽やかなすがすがしい歌だと言いたいのですが、一点にひっかかっていて躊躇しています。
初夏に蜻蛉が部屋へ舞い込むだろうか、蜻蛉が舞っているだろうかという一点です。僕の住んでいる長野県では蜻蛉が舞い始めるのは早くて真夏ふつうは晩夏のように思います。
しかし蜻蛉の種類や地域によっては初夏に舞うこともあるかも知れず、教えていただける方があったら嬉しいのですが。
というのも以前ある歌会で、僕がしっかりと見たうえでその事実を歌にして出したら、そのような事実はないはずだと言われたことがあり、事実関係を簡単に決めてしまうことの怖さを感じているからです。
そのことは保留にしたうえで、今は「はつなつの」を「はつあきの」のに勝手に変えて爽やかなすがすがしい良い歌だなあと思っています。
Posted by 永井秀幸 at 2010年07月06日 17:17
僕は歌を「言葉で作られた世界」として読むので、永井さんが書かれているような「ホントにそんなことがあるだろうか?」というような疑問はあまり抱きません。作者が蜻蛉が舞いこんできたと言っているのならそうなのだろう、と思って読みます。

「はつなつの風」と言えば、川上澄生の《かぜとなりたやはつなつのかぜとなりたや・・・》を想起します。この言葉は詩語としてはこの川上の作品と切り離して使うことはできなくなってしまったように思います。
とすれば、「舞ひこみし蜻蛉」は慕わしいひとの化身か、それを空へ逃がしたというホロ苦いシーンだろうか、と思って読みました。
Posted by 斎藤 寛 at 2010年07月08日 04:04
今、羽と胴体がブルーグレーのトンボを庭で見つけました!
今の季節でもトンボは飛んでいます。
このトンボの名前を知りたくて検索してみると、それは解からなかったもののトンボは種類によっては4月から見られることが解かりました。
ですから蜻蛉とはつなつの言葉は実景としても変ではありません。
私も歌に描かれた風景をそのまま読むので季節のずれは気になりません。
心象風景なら冬の蜻蛉もありでしょう。

蜻蛉に出会えたことは嬉しいけれど、人間とは住む世界が違う生き物、そっと逃がしてやるしかありません。
その時初夏の風も過ぎていった。
作者は遠い日の別れを重ねたのかもしれません。
Posted by 海野雪 at 2010年07月08日 10:49
海野さん

蜻蛉は種類によっては四月から飛んでいるということ教えていただきありがとうございました。
はつなつとその通りにとっても気持のよい歌だと思っています。
Posted by 永井秀幸 at 2010年07月08日 16:40
永井秀幸さんが書かれたように、初夏の風をさわやかにまとめた一首。

斎藤寛さんご指摘の「川上澄生の《かぜとなりたやはつなつのかぜとなりたや・・・》」は、不勉強で知りませんでしたので、独立した一首として鑑賞できました。

結句「吹きすぎゆけり」が、少し弱いと言うか、間延びしてしまったような気がします。もう少し作者らしい表現があればと思うのですけれど。

三句「逃がすとき」は音的に「放つとき」が美しいのでは、と、これはわたしの個人的な好みです。
Posted by 弘井文子 at 2010年07月13日 17:30
前評者の「放つとき」という案はつぎの「はつなつの」の「は」とひびきあって音韻的にも、また意味的にも爽やかな感じがまして魅力的な案だと思います。「吹きすぎゆけり」は僕はこのままで良いと思います。
Posted by 永井秀幸 at 2010年07月14日 16:49
心温まる真摯なコメントをいただいた皆様に厚く御礼申し上げます。
お礼かたがた、少々自註めいたことをいたします。

まず、永井秀幸さんのお尋ねですが、これは基本的にはまぎれもなく写実の歌でありまして、初稿は、

舞い込める蜻蛉を捕らへ逃がすとき父はわが家のヒーローなりき

でした。家族のやんややんやの喝采の中で、トンボを手づかみでやんわりと捕まえて戸外に逃がしました。その一齣のスケッチです。
手許の手帖の控えでは、日付は6月25日(金)となっております。

永井さんご在住の長野は、やはり冷涼なのでしょうね。
北関東の当地では、海野雪さんご指摘の通り、五月から梅雨入り前頃ともなれば、気の早いトンボは、もうちらほら飛び回っておりまして、特に珍しくもない普通の光景です。

と同時に、こちらでももちろんトンボといえば晩夏から秋が最盛期ですけれども、そうした通念的な季節感にちょっと逆らってみたいという小さなたくらみもありました。・・・従いまして、永井さんが抱いた疑問・違和感は、私の狙い通りであり、想定内の反応です(笑)

その後、上記の初稿を推敲したわけですが、その課程で、斎藤さん、海野さんがご指摘のように、この「逃がした蜻蛉」が隠喩になり得て、この歌は一種の象徴性・寓意性を帯びるかも知れないな、ということは、早い時点で感じ取り、十分に意識しました。

・・・その出来事は、僕にとってきわめて具体的なイメージとしてあり、想定されるある一人の読者にそれが向けられていることは事実です。
ただ、詳しいことは言いたくありませんので、何とぞこれ以上お聞き下さいますな(笑)

「はつなつの風」をめぐる斎藤寛さんの炯眼には感服いたしました。
川上澄生は故郷の偉人、というよりも、母校・宇都宮高校の前身、旧制・宇都宮中学校の英語教師で野球部副監督、著名な版画家で詩人という、文武両道・八面六臂の活躍をした方で、大正時代から戦前のモダニズムを一身に体現した伝説の人物です。版画家としては棟方志功にも大きな影響を与えました。
しばらく前になりますが、版画作品「へっぽこ先生」(自画像)が、サントリーウィスキーのCMキャラクター(?)になりましたのでご記憶の方もいらっしゃるかと思います。http://plaza.rakuten.co.jp/mewpops/diary/201003220000/

詩「はつなつの風」も、もちろん目にしておりました。その無意識的な引用でした。・・・ある意味、怖いことですね。

弘井文子さんのご提案にもありますように、「逃がす」は「帰す」、「放つ」などとする案も検討しましたが、「放つ」ではいささか小ぎれいになりすぎ一般的すぎる、「帰す」ではある種の思弁的な抽象性に傾くと判断し、もっともリアルで生々しい手つきを伝えると思った「逃がす」を採りました。
この「逃がす」には、それなりに内面的必然性(・・・というほど大したものでもありませんが)を反映しました。
ただ、今なお、おっしゃる通り音韻的にもきれいな「放つ」の方が良かったかなと、迷っております。

僕はかねがね弘井さんの大ファンで、その技量を仰ぎ見ておりますことは、弘井さんのブログにも書き込んだことがある通りです。
以上のような消息は薄々ご承知の上で、敢えてお尋ねになったものと敬服します。

結句「吹きすぎゆけり」が弱いというご指摘は、作者の僕自身、全く賛成です(笑)
が、言い訳になりますが、これを詠んだ6月末頃はワールドカップ・サッカーで日本代表チームが快進撃を続け、日本中を興奮の坩堝に巻き込んでいた時期でありまして、僕もとても作歌に集中できる精神状態ではありませんでした。
緊密な結句は、全く思いつきませんでした。何とぞご寛恕を冀(こいねが)う次第でございます(^^)
Posted by 坂本野原 at 2010年08月01日 13:11

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