この記事へのコメント
近頃の日本共産党の街頭演説を聞いたことがある方なら分かると思うが(・・・ほとんどいらっしゃらないと思うが)、マスコミ向けに精一杯のサクラの動員をかけた、たまのよそ行きの演説を除けば、立ち止まって聞く聴衆もほとんど皆無で、閑古鳥が鳴いているのが実情であり、まことにのどかな寂寞たる風景である。

先日たまたま通りかかって、そうした光景を目の当たりにして、諸行無常のもののあはれを感受した。

もう思想的には20有余年前に破綻・終焉したはずの集団であるから、当然の論理的帰結であるとはいえ、祇園精舎の鐘の声である。
→この辺り、「平家物語」冒頭の名文参照。

その反面、わが家の近くの裏通りに、つい最近まで日本共産党の本県支部(旧呼称「細胞」)があったので、何かあるたびに右翼の街宣車が全員集合して大音量で怒鳴るわ、ありがたい南無阿弥陀仏の嫌がらせ経文声明を流すわで、本当に迷惑だった。
県警も見て見ぬ振りの狸寝入り。ここだけは法治国家じゃなかったのね。

・・・え〜と、話がいささかあらぬ方向に膨らんでしまいましたが、この歌は、そうしたリアルな惨状を捉えて、笑わせると同時にチャップリン的悲哀を感じさせる、狂歌風の愛すべき佳品であると思います。

ところで、今どき、チンドン屋ってまだいるの?
Posted by 坂本野原 at 2010年07月06日 11:37
共産党は大衆を代表するようなことを言っているけれど御当人たちはエリートではないか、という揶揄の歌と読みました。
が、そういう意匠が見えすぎてしまう感があり、何かもうひとひねりほしいように思います。
Posted by 斎藤 寛 at 2010年07月08日 04:08
共産党の演説は、たどたどしい感じで、一所懸命さが空回りしてるように思います。
はい、わたしは、何度も街頭演説を聞いた経験がありますです。
ちんどん屋も、いますよ。昔ながらの化粧で、あの音楽で、商店街をチラシを配って練り歩いています。
わたしの経験上では、共産党の演説は確かにちんどん屋の音に負けていますね。
うちの近所の共産党事務所は、ほんとに、お金がなさそうで、みすぼらしいです。
わたしは、とくに肩入れしているわけでもないのですが、
「政権をとったら、もう、共産党には投票しない」
と、近所のおばさん連中が言っているのは、庶民としてのひとつの見識かも?と、思います。
この歌に関しては。
事実あるがままを歌っているので、可もなし不可もなし、と、失礼ながら、そのように思いました。
Posted by 花森こま at 2010年07月11日 02:19
>共産党の街頭演説あきらかにチンドン屋の音に負けておるなり

共産党候補とチンドン屋がたまたま同じところで活動していたのに着目した、面白い歌だと思います。
>あきらかに
で強く言おうとして、つまらなくなっているように思います。
事実だけ詠った方がこの場合、歌としてよくなるように思います。
例えば、共産党候補の街頭演説の、とでもして、あきらかにを削ってみたら。
Posted by 長谷川知哲 at 2010年07月11日 09:01
西王です。

共産党の街頭演説あきらかにチンドン屋の音に負けておるなり

この作品、

共産党の街頭演説あきらかにチンドン屋の音に負けているわね

というふうに読み替えて、たとえば富山から新潟へ旅行中のカップルの感想だすれば、とても気分がいい。

「負けておるなり」と、古典的な口調で独断的に言われると、私のような老人世代は、ムッとします。
1970年、私の大学などでは、日本共産党は巨大なひとつの体制でした。私は少年時代からの毛沢東主義=すなわちナンパ、でもってこの時代を乗りすごしましたが、共産党分党=ブントの思想の仲間は辛かったと思います。

日本共産党の変遷も、チンドン屋の変遷もさまざまにありましょう。

ひとつだけ指摘しておきますと、日本共産党の演説にみられる、語尾のイントネーションの特異さ。いったん語尾をあげて、ねじふせるように下げるやりかた。あれは不破書記長のころから始まったのだと思います。東大民青口調というか、上から押し付けるような感じですね。私たち小ブル雑派の口調は「ワレワレワーーー」と、きわめて開放的でありました。あたかも「チンドン屋」のように。

それにしても、さまざまな変遷を知った老人からすれば「おるなり」という断定口調は、いかんともしがたい。

「おるなり」と思う、ということを述べるのは簡単だ。しかし、偏屈な老人にその思いを伝えるのは難儀だ。
「チンドン屋の音に負けているわね」とカノジョが言えば、偏屈な老人は頷く。
Posted by 西王 燦 at 2010年07月23日 22:14
1970年の大学で赤いヘルメットをかぶって、その後ヒッピーに進んだもう一人の偏屈な老人としては、「あきらかに」の一言で簡単にまとめるな、というのが本当のところで、前評で書いたわけだけれども、そういう感情レベルのことは基本的に書かない主義なので、これからもあまり書かない。
基本は技術評だと思っているのです。

その上で言えば、「いるわね」の西王さんに賛成する。これだとあきらかには別物になり、すこしも気にならぬ。
Posted by 長谷川知哲 at 2010年07月24日 09:02
 僕は(多分)西王さんや知哲さんより少し下の世代だからでしょうか、「いるわね」に変えても、自分ではなく、その連れ合い(?)の言葉として、その人が短歌作品にしていることになるわけで、あまり変らないようにおもいます。
 「共産党の演説」と「チンドン屋」の音(量)を比較しているだけで、底が知れた歌で、それ以上のものを感じさせる歌にはなっていないとおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2010年07月25日 00:09

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