この記事へのコメント
なんとなくいい雰囲気は醸し出されている大柄な作品だと思うのですが、「置き去りにした大き手」が誰の手なのか、もう少し(手だけに)手がかりが示されるともっといいと思いました。

「大き手」というと、親?神?それとも、自分を育んでくれた「純粋だった時代」とか?
・・・確かに、抽象的なイメージはいろいろと喚起されますね。

吉田拓郎の「おきざりにした悲しみは」(作詞:岡本修巳)は踏まえてないのでしょうか。・・・これはたぶん無関係ですかね。

「かなしみ」は取扱い厳重注意の第一級危険単語だと思いますが、この場合けっこう嵌っていて悪くないですね。

ただ、下の句と結句の着地がちょっと甘いような気もしますね。

夜勤の方でもなければ、目覚めるのはだいたい朝ですから、「目覚めぬ今朝は」に、同義反復的な弛緩が感じられるのは私だけでしょうか?

また、下の句全体が、ちょっと流行歌の歌詞みたいな俗っぽい抒情感に陥っているような感じも否めないと思います。

もう少し推敲すれば、秀歌になり得ると思いました。

・・・言いたいこと言って、すいません。
Posted by 坂本野原 at 2010年07月06日 17:08
>大き手を置き去りにせしかなしみに睫毛濡らして目覚めぬ今朝は

初句から、北原白秋の「大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」を思い出しました。続いて「置き去りにせしかなしみ」からは、吉田拓郎をも思い出しました。そのあとは、センチメンタルな展開です。大き手の持ち主は作者と読めます。解釈に苦しみます。
Posted by 近藤かすみ at 2010年07月12日 18:58
14. 大き手を置き去りにせしかなしみに睫毛濡らして目覚めぬ今朝は

「大き手に(われが)置き去りにされた」という歌ならば、
この「大き手」は人間を超越した存在である神の手だとか、
あるいは父親の手というようにイメージできて、1首はすらっと読み解くことがきるのですが、
「大き手を(われが)置き去りにせし」ということなんですよねえ。
こうなると「大き手」とは一体誰の手なのか、一気にわからなくなって難解な歌になってしまいます。
もう少し手掛かりになるものがほしかったです。
 
Posted by 伊波虎英 at 2010年07月13日 17:41
大き手を置き去りにせしかなしみに睫毛濡らして目覚めぬ今朝は

西王です。経験的読みです。

この作品の「大き手」は作中人物が「置き去りにした」手ですから、自分の手や、おそらく神話的な手や親の手でもありません。

この大き手は、朝までは一緒に居られない、という関係の「男」の手です。
なぜ、「睫毛」を濡らして目覚めるかといえば、私の睫毛は(そのような行為の際に頭を包み込むような体勢で)彼の指が睫毛に触れたからです。

たぶん私の読み方は間違っていないと思います。たとえ間違っていたとしても深層心理としては、このようなことを語っていると思います。
Posted by 西王 燦 at 2010年07月16日 20:00
 歌意は、西王さんの書いておられる通りだと僕もおもいます。
 「大き手を」「(置き去りにせし)かなしみに」(直接はかかっていませんが)。「睫毛を濡らして」「目覚めぬ今朝は」と分けると、全部が大げさで、ヘタな演歌の歌詞(メロディーや歌唱力で名歌にもなりうる)のレベルでの短歌になっている、と僕はおもいます。
 歌は、ヘタな演歌の歌詞のレベルをめざすのではなく、もっとフツウのことばで、具体的に表現するだけでいいのではないでしょうか。
Posted by 山寺修象 at 2010年07月17日 07:49

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