この記事へのコメント
日本における無血革命だとさえ言われた「政権交代」。農家個別補償は優れたプランだったが、我が家(農家)では、ここに書くようなありさまである。
ふと思えば、馬鈴薯の原産地は南米だ。遠く、チェ・ゲバラのことなど思い起こしている初夏の夕暮れである。

すこし無理な解釈でしょうか?

Posted by 西王 燦 at 2010年07月07日 20:00
ある種の寂寥に盈ちた、荒涼たる硬質の抒情が感じられる作品だと思います。

思いつきで言ってすみませんが、例えば「嵐が丘」のヒースクリフの丘の荒涼たる風景みたいな。

西王さんの解釈は大変面白く拝読し、共感いたしましたが、自らおっしゃるように、一部はいささか穿ちすぎではないかと思いました。

やはりここで詠われている「革命」は、かつて人類が夢見た理想郷への永久革命と読むのが素直ではないかと思います。

・・・現・民主党のいう政権交代「市民革命」では、歌の柄がずいぶんとショボくなってしまうような気がいたします。

なお、「ずて」という、漢文訓読調の硬い言い回しも効果的だと思います。

「抉られし馬鈴薯の芽ばかりが溜まる」という下の句は、読めば読むほど味わい深い入魂の表現だと思います。

「馬鈴薯」という単語だけで、もう何ほどかのイメージが浮かんできます。

南米しかり、北海道しかりで、いずれも政治・経済的にきな臭さが漂っている「辺境」の地であることも連想させます。

その馬鈴薯から芽が出てきているというのは、春の端境期の、一年で一番苦しい時季なのでしょう。

ご存知の通り、ソラニンというアルカロイド系の毒を含んでいるこの芽は、ひとつひとつ丹念に抉り捨てるほかはない。それが堆く積もってゆく。

今は杳か遠く行方知れずになった革命の理想を、時に脳裡に幻視しつつ、黙々とその作業を続ける作中主体の、何事か譲れない最後の一線のようなもの。
Posted by 坂本野原 at 2010年07月08日 12:13
物語を感じますね。
私は馬鈴薯と革命の組み合わせでロシア文学をイメージしました。

Posted by 三田村まどか at 2010年07月08日 18:30
31音で、31音以上のことを言うこと―短歌の圧縮力というのでしょうか―
がとても成功していると思いました。

暗誦歌となりうる強いイメージがあります。
「馬鈴薯」という漢字を使ったことをどう思うかは好みもあると思いました。
私はこのままでも好きですが、少し場面が固定されすぎてしまうきらいもあるかと思いました。
Posted by 勺 禰子 at 2010年07月12日 11:05
「革命はいまだ成らずて」と言われてある感慨をもよおすのは、蓋然的に言えばあまり若くはない世代の読者、ということになるでしょうか。「馬鈴薯」は生き難き民の喩、「芽」には「革命の芽」のニュアンスも籠められているのではないか、と感じました。

4句「馬鈴薯の芽」は6音ですが、「芽」の後に小さく休止符が入る感じなのであまり字足らず感がありません。

ぎゃくに、2句「いまだ成らずて」は音数通りですが、「成らずて」という言い方がこなれない言い方のように聞こえます。文法的に間違いではないのでしょうが、古語辞典を見たら、「ずて」という言い方は上代にはあったものの平安時代以降は使われなくなった、とのこと。2句8音にはなりますが「いまだ成らずして」で良かったのではないでしょうか。
Posted by 斎藤 寛 at 2010年07月15日 05:56
>革命はいまだ成らずて抉られし馬鈴薯の芽ばかりが溜まる

革命はいったん起きたように見えたけれど、それは不十分なものであった。
毎日じゃがいもばかり食べている。えぐりだした芽はこんなにたくさんになった。

革命のかげもかたちもないということでなく、いったん起こりかけたように見えたのではないかなあと。
しかし成就しなかった。その無念さを感じたのですが。
Posted by 楠田よはんな at 2010年07月17日 17:09
9.革命はいまだ成らずて抉られし馬鈴薯の芽ばかりが溜まる

皆さんの解釈、とても興味深く読みました。

僕は、毎日毎日、台所で家族の食事をつくっている専業主婦の姿をイメージしました。
社会と深く関わっているとは言えない彼女でさえ社会不安とか政治不信から
「革命」というものをどこかで願うような今の日本の状況が、
毒があって抉り取るしかない馬鈴薯の芽に象徴されているように感じました。
馬鈴薯の芽を抉り取るような対症療法ではもうどうにもならないことに薄々気づいていて、
革命を夢想してはいるんだけれど、やはり日々、馬鈴薯の芽を抉り取っていくように
家事を続けていくことしかできない虚しさ、もどかしさのようなものが感じられます。
「馬鈴薯の芽」は彼女の心に日々溜まっているのでしょう。

ところで、
朝日新聞の夕刊に、京都市美術館で開催中のボストン美術館展の絵画を紹介する
小さな記事が連載されていて、17日はミレーの「馬鈴薯植え」でした。
馬鈴薯は当時、最下層の農民の食べ物とされていて、
ミレーは「卑俗な画題」だと批判されたというようなことが書かれていました。

「革命」、「馬鈴薯(の芽)」という言葉の選択が絶妙の1首だと思います。
そして、作中主体を専業主婦と限定せず、庶民全般ととらえたほうがいいのかもしれません。
 
Posted by 伊波虎英 at 2010年07月18日 01:08
最初はわからない歌でしたが、みなさまのコメントを読んでいるうちにだんだん理解できて来ました(遅い・・・)

専業主婦も革命を待つという伊波さんの読みに共感します。
多くの主婦は、諦めや身の回りにちょっとした楽しみを見つけることや、現実逃避することで、鬱屈を解消しています。
革命にまで考えが及ぶ作者は凄い。
私などひたすら安定を求めて、ずるずると日を送ってしまいます。
短歌にかかわるときの近藤かすみ(ペンネーム)は別人格でありたいと思っています。

歌としては、四句目の六音が気になりました。
Posted by 近藤かすみ at 2010年07月18日 10:06
革命はいまだ成らずて抉られし馬鈴薯の芽ばかりが溜まる


一歩間違えば、陳腐な響きをもつであろう
「革命はいまだ成らず」の言葉。
それをを敢えて上句に、大上段に構えたところに、
作者のダンディズムを見ます。

馬鈴薯の芽は、毒性がりますが、それは馬鈴薯を喰ってしまおうと
する存在にとっての毒なのです。

作者は、自己の中の「革命への熱情」を毒をもつ芽として、
内面に芽生えさせています。いくつもいくつもの毒の芽は、
自分をつつむ世界への、異議申し立て。
しかし、それは芽であるうちに「抉られ」るように切り取られ、
毒を取られたジャガイモは、家庭料理の定番である、
おいしいカレーやシチューに入れられ、煮とかされてしまう。

馬鈴薯・・・溜まるに「馬齢を重ねる」イメージが織り込まれています。
ここに諧謔を感じますが、同時に作者は「毒の芽」を溜めていると、
まだ捨ててはいないのだと・・・詠っています。

「成らずて」は、「成らで」か「成らずして」が抵抗がない使われ方と思います。
が、「革命はいまだ成らずて」という大仰な歌いぶりを支えるために、
かつ四句の字足らず六音とのバランスで、上句をきっちり
定型五・七にしたかったのではないかと思いました。

確信的に「ずて」を用いておられるのならば、支持したいと思います。
Posted by 梶崎恭子 at 2010年07月19日 00:19
歌会コメント締め切りの前に、この作品にだけ言及しておきたく。
といっても、みなさんの意見とわたしはほぼ同じです。
この作者が主婦かどうか、あるいは、かつての学生運動などに携わったひとなのか、は、おいて、革命、を夢見る想いは、誰にも、とまでは言いませんが、あると思います。
今、自分が置かれている環境、状況に、もう、真の革命は起こりそうにない、しかし、との想いが、馬鈴薯の芽に託されて、激しさを押し隠した秀歌と思いました。
つよく、激しく、かっこよく生きたいのですが、そうはできない、できなかった。いや、まだ、分からないぞ、と、思いつつ。今日も日が暮れてゆくのです・・・
Posted by 花森こま at 2010年07月24日 20:36
 現在の日本では「革命は〜」という出だしで、もう「歯が浮く」感じがします。
 国政選挙で、過半数を取るかどうかだけが問題であり、(劇場型選挙で中身はほとんどゼロなのに超人気の元総理もおられましたが)他の要素は、問題外のようにおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2010年07月24日 23:49
山寺さん

>現在の日本では「革命は〜」という出だしで、もう「歯が浮く」感じがします。

それはあなたの感覚、考え方であって、そうでないひともたくさんいると思いますよ?(微笑。
いろんなもの、こと、ひとをすべて許容出来ないことはあるかと思いますが、このおっしゃり方はいささか断定的に過ぎる気がしました。
と言っても、わたしは山寺さんを非難しているわけではありません。とても急いで書き込まれたのかもしれませんね、と、思ったまでです。
Posted by 花森こま at 2010年07月25日 11:54
>革命はいまだ成らずて抉られし馬鈴薯の芽ばかりが溜まる

革命と言う言葉を今も大切に考えている人は反発するに違いない。が、反発する批評の少なさに少々驚いた。

つまり、この1首の革命はとても軽いのだ。その意味では伊波さんの評が面白い。

>馬鈴薯の芽ばかりが溜まる
という下の句がとてもいい。抉られしもうまく嵌っていると思います。

この歌はいい批評を招く歌でしたね。
坂本さん、勺さん、斎藤さん、梶崎さん、花森さんの馬鈴薯についてのコメントが面白かった。

Posted by 長谷川知哲 at 2010年07月25日 18:42
 花森さんへ
 僕は「とても急いで」は書いていません。ある意味では、とても暇な生活ですから。「それはあなたの感覚、考え方であって」と書いておられますが「自分の感覚、考え方」をもってしか、文は書けないし、コメントは書けないし、会話も全く成りたたないとおもいます。
 現代の歌として、「革命は〜」と大上段で初句から始めて短歌を作ろうとしても、非常に難しいのではないか、とおもいます。最近の歌で、「革命は〜」と始めて、いい歌、秀歌、名歌があれば、花森さんに教えていただきたいです。
 
Posted by 山寺修象 at 2010年07月25日 20:25
今回はこの歌が一番好きでした。
僕は「革命」を政治的なものだとは全く受け取らずに、個人的な生活上の変化を希望しているものだというように解釈しました。
渡辺美里っぽく言うと「マイ・レボリューション」という感じでしょうか。
もしも作中主体が主婦であれば、革命というのはもしかしたら離婚であるかもしれない。別のことかもしれないけれど。
家事に倦みつつ、馬鈴薯の芽が象徴するところの、毒を含んだ力強い革命の芽を、自ら抉ってしまうのでした。
変わりたいけれど、なかなか変われない自分。
共感も出来るし、カッコいい。素敵な歌ですね。
Posted by 木嶋章夫 at 2010年07月25日 22:07

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