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2010年10月22日
第3回ネット歌会詠草/3
はじめからおまえに顔はなかったとトルソーに告ぐ窓のない部屋
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posted by 短歌人会 at 00:38|
Comment(6)
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この記事へのコメント
面白い着眼の歌だと思います。作者とトルソーの間に、人間とモノという関係を越えた友情のようなものを感じます。「はじめからおまえに顔はなかった」と告げたくなる何かが生じたのでしょうか。深い喩があるようにも読めます。
ただ結句の「窓のない部屋」は、そのまえでも「顔はなかった」と「ない」ことを言っているので、別の方向におさめた方がよかったかと思いました。
Posted by 近藤かすみ at 2010年10月22日 11:27
腕の欠けたビーナス、首の無い戦士、トルソー自体に美を求めて立体造形をする作者がいることを知ったのは数年前のことでした。それまでは歴史的遺産の状態として、一部が欠損した塑像があるのだろうとばかり思っていました。
この歌の作者は、窓の無い屋根裏部屋か地下室のアトリエで、おそらく過去に愛したであろう人を造形したのではないでしょうか。そして敢えて頭部は作らなかった。何故なら窓の無い部屋に置くことをはじめから想定していたから。窓の無い部屋とは、閉じられた空間であり、なんら将来に向けた展望は無く、ただ過去を封印するだけの部屋だからです。
飛躍しすぎた解釈にも思いますが…
深い物語を暗示する歌の様に思えます。
Posted by
村上 喬
at 2010年10月23日 02:09
2種類の「ない」が詠まれた魅力的な歌だと思いました。
・はじめから〜なかった顔
・窓のない部屋
あるべきはずの顔がない、身体としては不完全な形でしかその存在がないトルソーと、
存在的には窓がなくても成立し得る部屋を対比させることで、
「ない」ということが何なのかを考えさせられました。
おまえ、と呼ぶには不完全極まりないトルソーを
おまえと呼ぶのは作中主体なのかもしれませんが、
この歌の構造ではまるで、窓のない部屋がトルソーに語りかけているような、
「ない」というもの同士の初めからないはずの会話というか、、
そんな迷宮感がありひきこまれました。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2010年10月23日 16:22
前評者のみなさんと同じような印象をもって読みました。
彫刻家・芸術家も、個性的な顔や見るための眼、語るための口、考える頭も欠いたトルソーに、
普遍的な美しさを求めたようですね。
絵でも顔のみ描かれたものは個性が前面に出る「肖像画」でしかない。
著名性を消したトルソーこそ芸術として魅了されるのでしょう。
作中主体はこのトルソーに、恋愛にも似た深い感情を抱いたのかもしれません。
はじめからおまえに顔はなかったと告げるに至った状況は、読み手が想像するしかありませんが…
「窓のない部屋」も、作中主体のこころの閉塞感をあらわしていて効いていると思います。
ちょっと倒錯の世界っぽい雰囲気もあり、惹かれるところがある歌でした。
Posted by 三島麻亜子 at 2010年10月26日 09:05
展示会場や美術教室からトルソーを撤去して窓のない物置部屋のようなところに仕舞い込む
役目を担った作中主体の申し訳なさがあらわれた自己弁護の歌というふうに最初僕は読みましたが、
村上さんの「窓の無い屋根裏部屋か地下室のアトリエで、おそらく過去に愛したであろう人を造形した」
という解釈に惹かれました。
もしも、「顔のないトルソー」→「何も見ることができない」→「窓のない部屋」という発想から
頭の中だけで作った歌だとしたら少し残念ではあります。
Posted by 伊波虎英 at 2010年10月27日 01:32
はじめからおまえに顔はなかったとトルソーに告ぐ窓のない部屋
ヨーロッパの美術館に行くと、頭も四肢もない
胴体だけのトルソーによく出会います。
薄暗い部屋にトルソーばかりが
ずらりと並んでいるちょっと不気味なところも
あります。
そして、美術館の部屋には窓のないことが多い。
とすると、これは美術館で出会った
不満げなーーたぶんからだをひねったーートルソーの前に立って
「おまえには最初から顔はなかったんだよ」と
諭している光景、とも読めます。
でも、そう読むとあまりおもしろくない。
物語を作りすぎ、とも思いますが、村上さんの読みは
すてきですね。
出てしまえばうたは読者のものですから、
ときにはこれくらい読むのもいいかもしれない、と
思ったりしています。
Posted by 花鳥 佰(かとりもも) at 2010年10月29日 23:08
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飛躍しすぎた解釈にも思いますが…
深い物語を暗示する歌の様に思えます。
・はじめから〜なかった顔
・窓のない部屋
あるべきはずの顔がない、身体としては不完全な形でしかその存在がないトルソーと、
存在的には窓がなくても成立し得る部屋を対比させることで、
「ない」ということが何なのかを考えさせられました。
おまえ、と呼ぶには不完全極まりないトルソーを
おまえと呼ぶのは作中主体なのかもしれませんが、
この歌の構造ではまるで、窓のない部屋がトルソーに語りかけているような、
「ない」というもの同士の初めからないはずの会話というか、、
そんな迷宮感がありひきこまれました。
彫刻家・芸術家も、個性的な顔や見るための眼、語るための口、考える頭も欠いたトルソーに、
普遍的な美しさを求めたようですね。
絵でも顔のみ描かれたものは個性が前面に出る「肖像画」でしかない。
著名性を消したトルソーこそ芸術として魅了されるのでしょう。
作中主体はこのトルソーに、恋愛にも似た深い感情を抱いたのかもしれません。
はじめからおまえに顔はなかったと告げるに至った状況は、読み手が想像するしかありませんが…
「窓のない部屋」も、作中主体のこころの閉塞感をあらわしていて効いていると思います。
ちょっと倒錯の世界っぽい雰囲気もあり、惹かれるところがある歌でした。
役目を担った作中主体の申し訳なさがあらわれた自己弁護の歌というふうに最初僕は読みましたが、
村上さんの「窓の無い屋根裏部屋か地下室のアトリエで、おそらく過去に愛したであろう人を造形した」
という解釈に惹かれました。
もしも、「顔のないトルソー」→「何も見ることができない」→「窓のない部屋」という発想から
頭の中だけで作った歌だとしたら少し残念ではあります。
ヨーロッパの美術館に行くと、頭も四肢もない
胴体だけのトルソーによく出会います。
薄暗い部屋にトルソーばかりが
ずらりと並んでいるちょっと不気味なところも
あります。
そして、美術館の部屋には窓のないことが多い。
とすると、これは美術館で出会った
不満げなーーたぶんからだをひねったーートルソーの前に立って
「おまえには最初から顔はなかったんだよ」と
諭している光景、とも読めます。
でも、そう読むとあまりおもしろくない。
物語を作りすぎ、とも思いますが、村上さんの読みは
すてきですね。
出てしまえばうたは読者のものですから、
ときにはこれくらい読むのもいいかもしれない、と
思ったりしています。