2010年10月22日

第3回ネット歌会詠草/16

あめの降るまへにかならず頭痛して茂吉はながく歌を作りき
posted by 短歌人会 at 00:25| Comment(7) | 第3回歌会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
韻律はよく、シンプルで好感をもちます。
ただ、事実の伝達に終わっている気味がある。事実をもっと即物性に引きつけて詠むか、下の句の茂吉への作者の気持ちをもっと出すか、どちらかへ強く振るといい歌になるように思います。すこし中途半端なところが惜しい。
Posted by 長谷川知哲 at 2010年10月23日 09:20
あめの降る前の頭痛は作者に関することなのに、下句で茂吉が出てくるのは、作者が茂吉を偏愛しているからと感じられて、その執着ぶりに頭が下がる思いです。
漢字とひらがなの配分に、充分心が配られていて好感を持ちます。
Posted by 近藤かすみ at 2010年10月24日 00:01
「あめの降るまへにかならず頭痛し」の主語は「茂吉」であるという解釈に立ってコメントします。

インターネット上でざっと調べた限りでは、斎藤茂吉が雨の降る前に必ず頭痛を覚えたというような“伝記的事実”は確認できませんでしたが、あるいは実際にそういったことがあったのかも知れません。

度外れた几帳面さや粘着性、癇癪持ちの頑固な性格、はたまた「鰻の蒲焼」への異常ともいえる執着ぶりなど、長男・茂太、次男・宗吉(北杜夫)の詳らかな著作をはじめ、多数の周辺の人々の証言が残されており、短歌ファンにはよく知られています。

その孤高の純粋性と強烈な俗物性が一人の人間の中に共存しているさまは壮観で、今なお語り継がれる「愛すべき人格」と言えるでしょう。
もちろん私も、その作品・人物ともに大ファンです。

雨催いの際の(低気圧による)偏頭痛なんてことも、大いにありそうなことと思われます。
もしこれが作者の創作だとしたら、非常に鋭いイメージ把握力をお持ちの方だと思います。

茂吉の作品分析や歌評に際して、画期的な「たくまざるユーモア」という視点・補助線を持ち込んだのは、ほかならぬ小池光氏だといわれますが、この歌にも淡色ながらそうした諧謔味が漂っており、明治男へのレトロ(懐古趣味的)な愛着も感じられて共感を誘うとともに、達者なパステル画を見るような趣がある佳品だと思います。
Posted by 坂本野原 at 2010年10月25日 18:26
私は四句目の「ながく」に疑問があります。単純に「長期間」ととってよいのでしょうか。だとしても、上句との意味的なバランスが悪いような気がするのですが。
Posted by 藤原龍一郎 at 2010年10月27日 22:35
韻律がいいですね。
この歌は「茂吉肖像百首」とか、そういう題の一連として読んでみたいと個人的に思います。
つまり一首だけだと、感じるさせるものがどうしても弱い。
歌の内容に「ああ、そうなんだ」と思うだけです。
つまらないとは思いませんが。

「頭痛して」いるのは、僕は茂吉だと思いますが、もし作中主体なら、この主体の省略の仕方はわかりにくいと思います。
Posted by 渡口航 at 2010年10月29日 21:21
あめの降るまへにかならず頭痛して茂吉はながく歌を作りき

一見すっきりしたうたですが、藤原さんと同じように
「ながく」にひっかかりました。

茂吉は「韻律はながくながくあるべし」と言っていましたから、
つまり、おなじ五七五七七の定型でも「音」として聞いたときに
できるだけのびやかに長くなければならない、と
言っていましたから、ここは韻律の長いうたを作った、と
読むのではないでしょうか。
調べと期間と、両方をかけているのかもしれませんが、
それはあまり上品ではない気がします。

そうすると、上句の条件のとき、つまり
「あめの降るまへにかならず頭痛して」のときにのみ
茂吉は韻律ながくうたを作ったのか、ということになりますが
そういうわけはないと思います。

つまり、上の句と下の句は直接には
関係しない、と読みました。

すると、上の句はそれとなく茂吉のインモラルな
性格を詠っているのではないかと(ついさっき「茂吉の変態性、サディズム、
蔑視といったインモララル性は作家性より人間性に起因するのでは
ないか」といった文章を読んだばかりですので)
つい読んでしまって、これはなかなか深いうたではないか、と
思ったりしています。

読者によって読みが相当に変わる曲者のうた、と
思いました。

Posted by 花鳥 佰(かとりもも) at 2010年11月06日 15:14
花鳥さんの「ながく」の読みの一つ、韻律のながい歌を作ったと言う説、おもしろく思いましたがやや無理のような気がします、やはり長い期間歌を作り続けた、と取るのが自然ではないでしょうか。僕はそのように取って疑問を感じませんでした。
それよりも茂吉の大ファンとして、雨の降る前にかならず頭痛がしたという事実が茂吉にほんとうに有ったのか、有ったとしたらその根拠、出典は何なのか、あるいはどなたか書かれていたように作者の想像したことなのか、そちらが気にかかりました。もし想像から作ったとしたら僕はこの歌を評価できません。
歌の評からそれますが品田悦一著『斎藤茂吉』を今半分とちょっと読んだところですが、小池光氏の『茂吉を読む』に勝るとも劣らない名著と思います。どうしても書きたくなって書いてしまいました。管理人さんにカットされないことを祈るのみです。
Posted by 永井秀幸 at 2010年11月09日 17:36