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2010年10月22日
第3回ネット歌会詠草/26
淡いろのもってのほかを湯にすすぎ花びらにしてあっぱれに散る
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posted by 短歌人会 at 00:15|
Comment(4)
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この記事へのコメント
「もってのほか」を調べると食用菊の一種とわかりました。視覚的に綺麗な歌だと思います。
上句では作者が主体で、下句では「もってのほか」が主体になっているように読めます。
このあたりがすっきりしません。
Posted by 近藤かすみ at 2010年10月23日 00:15
一首を目にしたとき、「淡いろの」「すすぎ」「花びら」「散る」というやさしく美しいことばが目に飛び込んでくる。前評者の言うように視覚的に美しいうた。
「もってのほか」は食べてみるともってのほかおいしい食用菊で、薄紫と黄色とがあるらしい。上句に「淡色の菊を湯にすすぐ」という動作があり、下句では「花びらながらあっぱれに散る」ことが表現されている。四句の「して」は状態を表わす接続助詞。
前評者と同じく、上句と下句の主語がちがうので、続き具合が気になる。やはり「湯にすすげば」としなければ意味が通らないだろう。
あと、「もってのほか」と「あっぱれに」と、同じような響きの促音が繰り返されるのでやや単調な感がある。そして、「もってのほか」というやさしい菊の花びらの散り方を「あっぱれに」と表現するのにもちょっとひっかかる。
「あっぱれに」を別の表現にしてはどうでしょうか。
Posted by 花鳥 佰(かとりもも) at 2010年10月28日 18:39
淡いろのもってのほかを湯にすすぎ花びらにしてあっぱれに散る
御紋章である菊花を食するなど、言語道断「以ての外」であるという語源説があるようですが、御紋章云々を抜きにしても、これほど花らしい花を食用にするのは確かに珍しく、やや後ろめたさを伴うワクワク感のある秋の風物詩ですね。
・・・栄養的な意味はほとんどなさそうですが。
カリフラワーやブロッコリー、茗荷など、蕾を食べる野菜はけっこうありますが、食用菊の類例はちょっと思いつきません。
西洋料理のサラダなどに、何かの花びらを散らしたのを見たことがあるような、ないような。
ともあれ、この歌は前評者お二人のおっしゃる通り、清楚な華やかさのあるきれいなイメージに惹かれますが、主語の異なる上の句と下の句の二つの文節の接続が今ひとつすっきりしていない、いわば脱臼しているのが惜しまれますね。
現代短歌最尖端の表現などでは、しばしばかっこよく決まった脱臼もあるようですが、この場合はちょっと“痛いだけ”の脱臼でしょうか^^;
とりあえず、僭越ながら僕なりに推敲を試みますと、「淡いろのもってのほかの花びらを白湯にすすげばあっぱれに散る」あたりでしょうか。
文脈的には、一応すっきりすると思いますが、これ以上の改稿は私の手には余りますので、作者においてなされたく存じます。
折しも訪れている紅葉の季節にからめて言えば、在原業平のご存知「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」(古今和歌集294/小倉百人一首17)とか、凡河内躬恒「影をだに見せず紅葉は散りにけり水底にさへ波風や吹く」(家集「躬恒集」472)などといくぶん共通する感覚も感じられる、・・・と言ったら褒めすぎでしょうか?
なお、「もってのほか」と「あっぱれ」の二つの促音の対応は、作者が音韻・響きの面白さを意図的に狙ったものと解しますが、これが効果的なのか、そうでもないのかは、今ちょっと判断がつかないでおります。
Posted by
坂本野原
at 2010年10月30日 12:20
淡いろのもってのほかを湯にすすぎ花びらにしてあっぱれに散る
「もってのほか」というと普通ニ薄紫色の食用の菊を思い浮かべます。今の時期には山形県内では普通にスーパー等に並んでおり、地元では結構好んで「おひたし」の様にして食べられているものです。私も今日、さっそくこの歌のように淡いろの「もってのほか」を一袋買ってきて、湯にすすいで「花びら」にしてみました。「あっぱれに散る」のかを確かめようとして・・・
それはともかく、「もってのほか」を湯にすすいで「花びら」にすると淡いろの紫がはっきりとした紫となることも作者があえて「あっぱれ」と表現した一因かなと推測しました。
色々と視覚的な部分を意識してつくられた美しい歌だと思います。
Posted by 照井夕佳詩 at 2010年10月31日 17:53
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上句では作者が主体で、下句では「もってのほか」が主体になっているように読めます。
このあたりがすっきりしません。
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前評者と同じく、上句と下句の主語がちがうので、続き具合が気になる。やはり「湯にすすげば」としなければ意味が通らないだろう。
あと、「もってのほか」と「あっぱれに」と、同じような響きの促音が繰り返されるのでやや単調な感がある。そして、「もってのほか」というやさしい菊の花びらの散り方を「あっぱれに」と表現するのにもちょっとひっかかる。
「あっぱれに」を別の表現にしてはどうでしょうか。
御紋章である菊花を食するなど、言語道断「以ての外」であるという語源説があるようですが、御紋章云々を抜きにしても、これほど花らしい花を食用にするのは確かに珍しく、やや後ろめたさを伴うワクワク感のある秋の風物詩ですね。
・・・栄養的な意味はほとんどなさそうですが。
カリフラワーやブロッコリー、茗荷など、蕾を食べる野菜はけっこうありますが、食用菊の類例はちょっと思いつきません。
西洋料理のサラダなどに、何かの花びらを散らしたのを見たことがあるような、ないような。
ともあれ、この歌は前評者お二人のおっしゃる通り、清楚な華やかさのあるきれいなイメージに惹かれますが、主語の異なる上の句と下の句の二つの文節の接続が今ひとつすっきりしていない、いわば脱臼しているのが惜しまれますね。
現代短歌最尖端の表現などでは、しばしばかっこよく決まった脱臼もあるようですが、この場合はちょっと“痛いだけ”の脱臼でしょうか^^;
とりあえず、僭越ながら僕なりに推敲を試みますと、「淡いろのもってのほかの花びらを白湯にすすげばあっぱれに散る」あたりでしょうか。
文脈的には、一応すっきりすると思いますが、これ以上の改稿は私の手には余りますので、作者においてなされたく存じます。
折しも訪れている紅葉の季節にからめて言えば、在原業平のご存知「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」(古今和歌集294/小倉百人一首17)とか、凡河内躬恒「影をだに見せず紅葉は散りにけり水底にさへ波風や吹く」(家集「躬恒集」472)などといくぶん共通する感覚も感じられる、・・・と言ったら褒めすぎでしょうか?
なお、「もってのほか」と「あっぱれ」の二つの促音の対応は、作者が音韻・響きの面白さを意図的に狙ったものと解しますが、これが効果的なのか、そうでもないのかは、今ちょっと判断がつかないでおります。
「もってのほか」というと普通ニ薄紫色の食用の菊を思い浮かべます。今の時期には山形県内では普通にスーパー等に並んでおり、地元では結構好んで「おひたし」の様にして食べられているものです。私も今日、さっそくこの歌のように淡いろの「もってのほか」を一袋買ってきて、湯にすすいで「花びら」にしてみました。「あっぱれに散る」のかを確かめようとして・・・
それはともかく、「もってのほか」を湯にすすいで「花びら」にすると淡いろの紫がはっきりとした紫となることも作者があえて「あっぱれ」と表現した一因かなと推測しました。
色々と視覚的な部分を意識してつくられた美しい歌だと思います。