この記事へのコメント
さて、むつかしいうた。

「放ち」「掴みて」「うち開き」と動詞が三回重なり、目的語がいずれも「我」とはわかるのですが、それでは主語は何か? と見ると「リルケ」しかありません。
そうすると、リルケが我を放ち、掴み、うち開く、そして我はその憧れのリルケを仰ぐ、と読むことになります。

あのリルケが手を伸ばして実際に「我」の肉体を掴んだり開いたりするとは考えられませんので、「我」は「われの心」と読むことになり、リルケを読むとわたしの心は、精神は、解き放たれ、ぐいと掴まれ、そして外に向って開かれる、そんなリルケに私は憧れ、高く仰ぎます、という、感覚感性のうたである。

名詞は「我」と「リルケ」しかなく、どちらも具体性のあるモノではない。「短歌人」11月号の雁信で小池光さんが言ってられる「りありずむのうた」にもう少し近づける方が、読者に読まれやすくなると思います。
Posted by 花鳥 佰(かとりもも) at 2010年10月28日 13:12
(我を放ち)自閉的にならずに自分を解き放ち(我を掴みてうち開き)いや、自我をしっかり保ったうえで心を開き、あのドイツ(だったと思う)の詩人リルケにはるかに憧れ、仰ぎみることよ。というようなことを言っている歌かと思いましたが、上句については意味が取りにくくそれで良いのか自信が持てません。
上句をもう少し分かりやすく表現してもらえたら良かったかなあ、と思いました。
下句も率直なことは嫌いではないのですが、やや率直単純すぎて歌謡曲的な感じになってしまったように僕には思えます。
Posted by 永井秀幸 at 2010年10月28日 17:10
上の評は最初の花鳥さんの評が書かれた日と同日に書き込んだため花鳥さんの評を読まないで書いたものでした。上句の読みは明らかに花鳥さんの読みのほうが良く教えられました。
やはり僕のような頭脳明晰ならざる者にもすぐそのように取れるような、もう少し分かりやすい表現にしてもらいたかったと思います。
Posted by 永井秀幸 at 2010年10月30日 14:54