この記事へのコメント
現在話題の的のスカイツリーが遠く武蔵野から見える、というのはその日のその地域の方にとっては大ニュースだろうと思います。それだけいま現在の秋の空気が澄んでいる喜びも感じられて、内容的にはすてきなうただと思いました。

「見えてゐるとふ声がする」が間延びしている感があります。
「見えてゐる」とゆっくり言ったあとに「とふ」、つまり「といふ」の省略形を持ってくるのはアンバランス。
「見ゆとの声す」として、三句に何か五音を追加してはどうでしょうか。

「この武蔵野に」の「この」が効いていない。
2音を入れるなら「わが」とか「いま」のほうが作者の身体に近く感じられる気が、私にはいたしますが。
Posted by 花鳥(かとり)もも at 2010年10月23日 22:36
スカイツリーの出来上がっていくさまを詠んだ歌を最近よく目にします。

地方に暮らす私などは馴染みが薄く、それほど感慨も持てないのですが、
この歌は「武蔵野」という地名の効果、その武蔵野に限りなく愛着を持っているだろう作者を、
身近に感じられてよい歌だと思いました。

「この」「あの」をむやみに使うことは短歌では嫌われるかもしれませんが、
その歌の内容によっては必ずしも効いていないとは言えない気もします。
「この世界」などと言ったときの、何かを訴えるときに使えば象徴的に読み手の共通認識を呼ぶ語は、
オリジナリティを欠くものですが、「この武蔵野」というときの郷愁は、作者独自の想いと受け取れました。

それはたぶんに「スカイツリー見えてゐるとふ声がする」という上句から誘導されている気がします。
今まで見えていなかった、無かったものが、自分の町の風景を日々占めていくという感情。
これが詠われている。

寂しいのか嬉しいのか複雑なのか…そこは何も言っていないのですが、「スカイツリー見えてゐる」と、
住人の誰かが言った。この部分の放ち方が琴線に触れました。
Posted by 三島麻亜子  at 2010年10月26日 09:48
>寂しいのか嬉しいのか複雑なのか…

三島さんのおっしゃるとおり、確かに何も言っていない。
「とふ」と「この」や「秋ふかみゆく」がその言葉にある程度の方向性を持たせて
秋の気配を漂わせていますね。

「とふ」の前は「見えてゐる」だけではなく「スカイツリー見えてゐる」全体が話者の言葉だと思うので、
一読したときには「スカイツリー【が】」としなかったのは音数合わせなのかな、という印象を持ちました。
しかしながらたとえば大阪弁では(大阪弁をよく引き合いに出してすみません)、
「ちょっと!あそこにスカイツリー見えてるわ」「うわ、スカイツリー見えてるで」など
格助詞は省略される傾向にありますから、一概におかしいとは言えないのかもしれません。
…とはいうものの、やはり「スカイツリー見えてゐる」というのは不思議な語感であります。
おそらく感嘆の有無がまったく見えないところにこの歌の面白さがあるのかなと思います。
少し危うげな面白さではありますが。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2010年10月26日 12:16
「この」に対する花鳥さんと三島さんの意見の違い興味深く読みました。そして考えてみたのですがなかなか難しく自分の意見が決まりません。花鳥さんの出されている案の「わが」と「この」は僕にはほぼ同じように感じられ、もう一案の「いま」は「この」とはややニュアンスが違うように感じられて強いて言えば「いま」が良いのかなと今は微妙にそう思っているのですがー。
短歌は難しいと改めて思うのみです。
Posted by 永井秀幸 at 2010年11月10日 16:55
丁寧なコメントを、どうも有難うございました。

武蔵野は、生まれ故郷ではありません。
でも、ふるさととは違う、武蔵野の
自然、季節感が好きです。

たとえば月の大きさや色の感じ、
太陽の、季節による光線の加減、
虫の音色。
ふるさとの新潟とはずいぶん違っています。

季節ごとにそういうものを
とても新鮮に感じながら、
いつの間にかこんなに年月がたったのだ
という気がいたします。

そんな気持ちを込めて
「この武蔵野」と言ってみました。

Posted by 梶崎恭子 at 2010年11月19日 23:58