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2010年10月22日
第3回ネット歌会詠草/36
喪失はゆらりゆらりと覆いたり葬儀費用で争いし夕
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posted by 短歌人会 at 00:05|
Comment(7)
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この記事へのコメント
肉親の葬儀で他の肉親と葬儀費用の分担について争ったゆうべ、(たぶん親の葬儀の費用分担で兄弟同士が争ったゆうべ、)大切なひとを失った、という感情に強く苛まれた、と読みました。
「喪失が覆う」にはちょっと無理があって、「喪失はわれを覆いぬ」とするか「喪失に覆われぬ」と受け身にした方が確実に読めるのではないでしょうか。
また、「ゆらりゆらり」のオノマトペが「喪失」が「われ」を覆うのを表わすにはフィットしてない気がします。
「葬儀費用で争いし夕」の「で」は散文的なので、「に」とするほうがいいとおもいます。
争っている自分たちがいかにも醜く見え、それだけ亡くなったひとへの思慕が強まって、身を切るようにさびしい気持を捉えて作歌したのはすばらしい。
Posted by 花鳥(かとり)もも at 2010年10月23日 22:02
亡くなった人が居れば、こういうとき的確に仕切ってくれるのに、という残された家族の思いを感じました。
前評者もおっしゃっていますが「ゆらりゆらりと覆い・・」がぴったり来ていない気がします。
切実な思いを表す言葉がきっとあるはず。
葬儀費用という漢字四文字も堅い感じです。費用だけでなく他のことでも、もめたのではないですか。複雑な感情を言葉にするのは難しいですが、チャレンジしてほしいと思いました。
Posted by 近藤かすみ at 2010年10月31日 12:29
葬儀費用の争いを捉えて歌にしようとした作者の気持ちは大切に考えたいと思います。
問題は、喪失はと冒頭から大上段に構えたところかとおもいました。葬儀費用で争うという重い内容ですから、ほかはさらりと情景などを読むように構成したほうがよかったのではないでしょうか。そうすれば下の句が生きたように思います。この作では、上の句と下の句が争っているようで、どちらも感じが出てこない気がします。
Posted by 長谷川知哲 at 2010年11月02日 21:17
喪失はゆらりゆらりと覆いたり葬儀費用で争いし夕
人生の塩辛さを思わせる歌です。
親族を亡くしたときに、誰も葬儀費用で争うことなど、
したくはないはずです。
が、否応無くそういう事態が現実にあった。
その夕べは、慌しく葬儀の段取り等を
打ち合わせなければならないような、
まだ喪失の悲しみをほんとうに実感する
そんな余裕が無い時間だと思います。
「喪失はゆらりゆらりと覆いたり」の上句に、
大切なひとを亡くした強い悲しみを、
半ば意識しながら、
まだ本当には実感できていない、
不安定な心情を感じます。
「ゆらりゆらり」のオノマトペは、
たとえば大きな水ヨーヨーが、右へ左へ
不安定に傾いて揺れているような印象です。
傾きが、どちらかへずれれば、どっと破れて、
激しいかなしみが溢れ落ちてくるような・・・でも、まだ
ちゃんと故人をおくらねばいけないという緊張感の中で、
危うく均衡が保たれている・・・
そのようなお歌と読みました。
「ゆらりゆらりと覆いたり」は、
そのような状態を、ある実感として
言い得ているのではないか
という気がします。
Posted by 梶崎恭子 at 2010年11月03日 14:19
「喪失はゆらりゆらりと覆いたり」
この喪失感は、無論、作者のなかにあるものなのですが、それを感じるのは耐えがたいので、「喪失」という漠然としたことばで括って、自分の外に(この歌の場合だと、上の方に)出来るだけ追いやる。しかし、それは忘れようもなくそこにあって、降りて来ようとする。何らかの理由で(例えば睡眠不足とか)、体もふらふらしている。
そのようなとき、文字通り「喪失はゆらりゆらりと(その場を、そして作者を)覆」うのではないでしょうか?
「葬儀費用で」の「で」の使い方は、やや乱暴に感じますが、「葬儀費用(なんか)で」争ってしまったという、やりきれなさを、却ってリアルに伝えていると思います。
また、「喪失」には、どなたかが亡くなったということだけではなくて、葬儀費用などで争わざるを得なかった、そのことで損なわれた家族?とのあいだの信頼の(そして期待の)「喪失」感も、含まれているのではないかと思いました。
梶崎さんが述べられているように、私も、一読して、「ある実感」を「言い得ている」のではないかという気がしましたので、なぜそう感じられるのかを、何とか説明出来ないものかと考えて、以上のようになりました。
Posted by 大室ゆらぎ at 2010年11月11日 15:52
最後になってしまいましたが、好きな歌でした。
「喪失はゆらりゆらりと覆いたり」これだけで、完成していると言えるとも思います。
川柳だと、これで完全なる一句ですね。
でも、短歌だからこそ言えることもあって、それが下句の現実表現だとも思います。
それがいいのか悪いのか、ではなくて、短歌にはそこまで言える、ということだと思います。
読者をして自由に読ませてくれない足枷のようでもありますが、
ぐっと引き戻す短歌の力ともいえると思います。
そのようなことから私は下句の「短歌表現としての硬さ」や
上句の「喪失」という言葉は気になりませんでした。
読後感としては、梶崎さん大室さんと同じ傾向です。
作者が感じている「喪失」を表すためにこの31音が必要なのだと思います。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2010年11月21日 22:55
皆様コメントありがとうございました。
10月10日に父が亡くなり、それが私の誕生日の前日でした。まるで父に寿命をもらったような気持ちです、親不孝な娘でしたが。未だに父の死の実感がないのですね。残された家族の様子や自分のこと、どううたうかという余裕もなくてそのまま作品として出詠させていただきました。でも短歌をやっている皆様には、本人も気づいていない心の状態も読めてしまうのだな、というコメントもありました。短歌を続けていて本当によかったです。
Posted by 佐々木ゆか at 2010年11月22日 23:32
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また、「ゆらりゆらり」のオノマトペが「喪失」が「われ」を覆うのを表わすにはフィットしてない気がします。
「葬儀費用で争いし夕」の「で」は散文的なので、「に」とするほうがいいとおもいます。
争っている自分たちがいかにも醜く見え、それだけ亡くなったひとへの思慕が強まって、身を切るようにさびしい気持を捉えて作歌したのはすばらしい。
前評者もおっしゃっていますが「ゆらりゆらりと覆い・・」がぴったり来ていない気がします。
切実な思いを表す言葉がきっとあるはず。
葬儀費用という漢字四文字も堅い感じです。費用だけでなく他のことでも、もめたのではないですか。複雑な感情を言葉にするのは難しいですが、チャレンジしてほしいと思いました。
問題は、喪失はと冒頭から大上段に構えたところかとおもいました。葬儀費用で争うという重い内容ですから、ほかはさらりと情景などを読むように構成したほうがよかったのではないでしょうか。そうすれば下の句が生きたように思います。この作では、上の句と下の句が争っているようで、どちらも感じが出てこない気がします。
人生の塩辛さを思わせる歌です。
親族を亡くしたときに、誰も葬儀費用で争うことなど、
したくはないはずです。
が、否応無くそういう事態が現実にあった。
その夕べは、慌しく葬儀の段取り等を
打ち合わせなければならないような、
まだ喪失の悲しみをほんとうに実感する
そんな余裕が無い時間だと思います。
「喪失はゆらりゆらりと覆いたり」の上句に、
大切なひとを亡くした強い悲しみを、
半ば意識しながら、
まだ本当には実感できていない、
不安定な心情を感じます。
「ゆらりゆらり」のオノマトペは、
たとえば大きな水ヨーヨーが、右へ左へ
不安定に傾いて揺れているような印象です。
傾きが、どちらかへずれれば、どっと破れて、
激しいかなしみが溢れ落ちてくるような・・・でも、まだ
ちゃんと故人をおくらねばいけないという緊張感の中で、
危うく均衡が保たれている・・・
そのようなお歌と読みました。
「ゆらりゆらりと覆いたり」は、
そのような状態を、ある実感として
言い得ているのではないか
という気がします。
この喪失感は、無論、作者のなかにあるものなのですが、それを感じるのは耐えがたいので、「喪失」という漠然としたことばで括って、自分の外に(この歌の場合だと、上の方に)出来るだけ追いやる。しかし、それは忘れようもなくそこにあって、降りて来ようとする。何らかの理由で(例えば睡眠不足とか)、体もふらふらしている。
そのようなとき、文字通り「喪失はゆらりゆらりと(その場を、そして作者を)覆」うのではないでしょうか?
「葬儀費用で」の「で」の使い方は、やや乱暴に感じますが、「葬儀費用(なんか)で」争ってしまったという、やりきれなさを、却ってリアルに伝えていると思います。
また、「喪失」には、どなたかが亡くなったということだけではなくて、葬儀費用などで争わざるを得なかった、そのことで損なわれた家族?とのあいだの信頼の(そして期待の)「喪失」感も、含まれているのではないかと思いました。
梶崎さんが述べられているように、私も、一読して、「ある実感」を「言い得ている」のではないかという気がしましたので、なぜそう感じられるのかを、何とか説明出来ないものかと考えて、以上のようになりました。
「喪失はゆらりゆらりと覆いたり」これだけで、完成していると言えるとも思います。
川柳だと、これで完全なる一句ですね。
でも、短歌だからこそ言えることもあって、それが下句の現実表現だとも思います。
それがいいのか悪いのか、ではなくて、短歌にはそこまで言える、ということだと思います。
読者をして自由に読ませてくれない足枷のようでもありますが、
ぐっと引き戻す短歌の力ともいえると思います。
そのようなことから私は下句の「短歌表現としての硬さ」や
上句の「喪失」という言葉は気になりませんでした。
読後感としては、梶崎さん大室さんと同じ傾向です。
作者が感じている「喪失」を表すためにこの31音が必要なのだと思います。
10月10日に父が亡くなり、それが私の誕生日の前日でした。まるで父に寿命をもらったような気持ちです、親不孝な娘でしたが。未だに父の死の実感がないのですね。残された家族の様子や自分のこと、どううたうかという余裕もなくてそのまま作品として出詠させていただきました。でも短歌をやっている皆様には、本人も気づいていない心の状態も読めてしまうのだな、というコメントもありました。短歌を続けていて本当によかったです。