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短歌人会の公式なネット歌会会場です。
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2011年03月02日
posted by 短歌人会 at 16:09|
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第4回歌会
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一日は長過ぎるゆゑ九時間は眠り人生を短く使ふ
人生を達観しているのでしょうか、それとも
人生に絶望しているのでしょうか……。
どの年代の方の歌なのかでも解釈が違ってくる歌かもしれません。
「一日」と「人生」を逆にして、
人生は長過ぎるゆゑ九時間は眠り一日を短く使ふ
という形も有りかなと思いました。
伊波さんの言われる「人生を達観している」人の歌か「人生に絶望している」人の歌かで言えば僕には「人生に絶望している」人の歌のように思えるのですが。
人生を達観もせず、絶望もしていない中途半端な僕には到底このような詠みかたはできません。気にはなる歌なのですが読み込むことはできませんでした。
不思議な魅力を感じる歌です。
やはり、人生に絶望している歌なのでしょうか・・・
前評をヒントに、
こんなふうに考えました。
伊波虎英さんの示された形。
「一日」と「人生」を逆にして、
人生は長過ぎるゆゑ九時間は眠り一日を短く使ふ
ひょっとしたら作者は「人生は長すぎる」とは
思っていないのかもしれない・・・と思ったのです。
「一日は長すぎる」という作者は、
どのような一日をすごす人なのだろうか・・・?
辛いのだろうか、退屈なのだろうか、
耐え切れないのか、飽き飽きしているのか・・・
でも、結句で「人生を」「使ふ」と言っています。
「使ふ」とは、能動的な動詞だと感じます。
作者は、人生を縮めたいのではなく、
ちゃんと「使ふ」という意志があるのだと思います。
そこに、不思議な、折り合い・・・を感じます。
作歌以外に特にすることもなく、ああ暇だなあという気分が表現されていて面白いと思います。
絶望というよりは、もっと軽い意味での退屈な気分だと感じました。
ただ、「人生を短く使う」は、長く眠るほど、有意義に使える時間が短くなるということだと理解したのですが、いまひとつ、しっくりしない表現だと思いました。
第2の人生を始める前のモラトリアム、道草もいいものです。
九時間も眠ると夢もたくさん見るのでしょうか。
人生は短いから眠る間をおしんで何かをする、といった常識的な考えを一笑にふしてるみたい。
一読して、詠まれている意味内容と表現自体には特に難解なところはなく、すっと理解できます。
──が、「普通の」常識的、小市民的、日本人的価値観を顛倒させているというか、それに背を向けているというか、一体この内容をどう解釈すればいいのか、皆目見当もつきませんでした。
今、作者が大室さんであると分かってみると、なるほどそうか〜と、初めて幾分腑に落ちたところです。
ネット歌会では、私の作品にしばしばコメントをいただいておりますので、お礼かたがた一筆啓上いたします。
短歌を、作品それ自体(テキスト・プロパー)で批評すべきだという時代(「前衛短歌」全盛期の頃)があったそうですが、現在では、作者の現存在、もしくは実存・世界内存在を抜きにしては評価できないという考え方が大勢だという趣旨の言説が、短歌総合誌に見られます。私もそれに与します。
本誌で展開される大室さんの世界には、端倪すべからざる才能と、よって来たるところが推測し難いある種の深い絶望感と虚無感、そしてその中に潜んでいるある種の窮境的な美が、優れた観察力と想像力・表現力で、緊密にあるいは象徴的に詠われており、毎月目を瞠らされております。
この作品も、こうした脈絡で見直すと、やはりある種の絶望感や虚無感のようなものを詠っていると解釈するのが妥当なのでしょう。
ただ、作者にしては比較的ゆるい表現が、わずかに諧謔味を湛えており、たぶん意図せざるおかしみを醸し出しているのも事実と思います。
なお、私の勝手な感じでは、「ゆゑ」だと重厚に過ぎるので、「ので」あたりでどうかなとも思いますが、これは特に強く主張したいわけではありません。
ついでながら、先日の随筆欄「三角点」で、原点には塚本邦雄の歌があるとおっしゃっており、実は私もそうなのですが、どうしてこうも才能に格差があるんだと、こちらこそ絶望感にうちひしがれてしまいます〜 ^^;
数字・時間はありますが、具体がほぼないです。
・・・字数が多い割には粗雑・粗忽な発言をまたやっちまったな〜と恥じ入っておりますが、覆水盆に還らずであります。
ただ、深い孤独感、疎外感、厭世観、悲愴感、また誤解を懼れず言えば、一種の「被害意識」が作品中にしばしば現われてくるのは割に確かなことと思われ、強く印象に残っていました。
こうした感性は、一流の芸術家、とりわけ言語表現者、詩歌人には必須の資質であると思います。
いずれも、私の中にはほとんど欠落している要素で、だからこそ惹かれるともいえますし、羨(とも)しいとさえ思っております。
この歌は、そうした大室さんの全体のコンテキスト(文脈)の中で理解されるべき作品であり、この一首全体が一つの比喩、象徴的な表現に成りえているかなと思いました。
・・・山寺さんの評言は、僕には屁理屈にしか感じられませんでした。
歌会への参加者は全員、自分の能力に応じて本気で参加しているとおもいます。
だから、歌が理屈におわっている場合はありえても、誰かが、悪意をもって屁理屈の批評をすることはないのではないでしょうか。
マイナス評価の批評の場合、短歌を始めてまもない人に対して、厳しすぎると感じられる批評はあるかもしれませんが。
多くの人がプラス評価する歌に対して、明らかにマイナス評価の短い批評をしたからといって「屁理屈」と書かれるのは心外です。
僕にとって「屁理屈」という言葉についても勉強になりますので、坂本さんには2行の表現のうち、どこがどう「屁理屈」なのか詳しく教えていただきたいです。