この記事へのコメント
若いお友達の葬儀か通夜に行ったのち、駅前の居酒屋で友を偲びつつマッコリを飲んだと、そのまま解釈して間違いないかと思います。マッコリはお酒の種類なので、囲みというのは、そぐわない気もします。亡くなった友達が若かったことが、残念でくやしい気持が伝わります。遺された人たちは、まっすぐ帰宅する気になれなかったのでしょう。しんみりとした淋しさを感じました。
Posted by 近藤かすみ at 2011年03月09日 17:03
「マッコリはお酒の種類なので、囲みというのは、そぐわない気もします」と
近藤さんはお書きになりましたが、
マッコリはだいたい甕というか広口の陶器の器に入っていて、
自分のコップ(というより茶碗)に分けて何人かで飲むスタイルのお酒なので、
「囲む」がそぐわないということはないと思います。

むしろ「昔語りす」があっさりした描写なので、
「若すぎる遺影」ゆえの悔しさが伝わりきらなかった憾みが残りました。

Posted by 生沼義章 at 2011年03月18日 19:39
いい歌だと思いました。
分かりやすい。

昔語りす、については生沼さんの意見はもっともとも思いましたが、そこまで導いてくるフレーズのなかに既に作者の心情は表れていますから、作者の気持ちは汲める、そう思いました。
Posted by 長谷川知哲 at 2011年03月20日 21:56
 この歌については、何かが足りないというか、いい歌だとは感じられないものがありました。
 「駅前」と「マッコリ」は、具体と固有名詞であり、生きているとおもいます。
 しかし、それ以外の部分には、すこしずつ不満を感じます。
 「若すぎる」は言わないで感じさせて欲しいし、「(若すぎる)遺影と別れ」と「マッコリ囲み」は、両方とも直接「擬人法」ではありませんが、「擬人法的」な表現で、かつ、慣用句的な表現に近い、と感じられます。
 「昔語りす」も慣用句的で、やや雑な感じが、僕にはほんの少しします。それに、「若すぎる死」ならば、昔語り、ばかりではなく、現在に近い頃の話も出てくるだろう、とおもってしまいます。 
 全体でも、上句と下句の関係がややつき過ぎ・予定調和な感じがします。
Posted by 山寺修象 at 2011年03月21日 08:38
「若すぎる遺影」:亡くなられた方は、実際に「若すぎる」年齢で亡くなられたのでしょうか。それとも、「亡くなった年齢よりもかなり若い時に撮った遺影がお葬式で使われていた」という意味なのでしょうか。ことばの意味としては、どちらとも取れるように思うのですが。
「昔語りす」:この「昔語りす」という語からすると、亡くなった方が、それほど若い方という風には読み取れないように思います。
Posted by 大室ゆらぎ at 2011年03月25日 09:35
友人の告別式でしょうか、淡々と詠まれていて、それが却ってこころにせまります。

結句の「昔語りす」は先行評にもあるように若くして亡くなったかたをしのび、語り合うにはなじまない気がします。では、大室ゆらぎさんが書かれたように、亡くなったのは青春期を過ぎた方で、ただ遺影が若い頃のものであった、のでしょうか。
でも、素直に読むと初句は若くして亡くなった方の遺影、と読め、結局「昔語りす」が若過ぎる死には合わない、に戻ってしまいました。
Posted by 弘井文子 at 2011年03月27日 10:23

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