この記事へのコメント
池の端に行くと鯉がそれを察知して寄ってきます。
鯉が餌をもらおうと口をあけている様子が不気味です。
「ぬおおんと」というオノマトペは作者独自のものでいいと思いました。
「世界のはじつこここよといひぬ」は旧かなで書かれて字あまりがあり、ひらがなが続いているので「はじつこ」=「端っこ」がすぐには読み取りにくかったです。
「世界の端は」とすれば定型なのに字あまりにしてまでここをくだけた口語の「世界のはじつこ」にした作者の意図はよく解りませんでした。
擬人法のためでしょうか?
Posted by 海野 雪 at 2011年03月05日 14:39
 
ぬおおんと口あけ鯉の寄つてきて世界のはじつこここよといひぬ

仕事や人間関係で鬱々としている時に、ひとり近くの公園にある池へ出かけ、
手をパンパン叩いて鯉を呼び寄せて気晴らしをしているのでしょう。
ここはまさに、彼(女)にとって束の間の現実逃避の場であり、
日常生活から最も遠くにある世界の端っこみたいな所なわけです。
そういうかけがえのない場所を、肯定的に第三者からも容認してもらいたい
という強い思いがあって、こういう幻想的な体験を彼(女)はしたのだと思います。

ぬおおんと間抜けな顔で近寄って来る鯉に、
「そうだよ、ここは世界の端っこなんだよ。しばらくのんびりしていきな」
と慰められて、彼(女)は再び日常生活へと戻ってゆくのです。

河野裕子さんの歌に、
「夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温(ぬく)いよぬーと沼のやうだよ」 
というのがあります。鯉には、「ぬー」とか「ぬおおん」とか「ぬぼー」とか
そういうオノマトペがぴったり合うように思います。

下句の表記は、たとえば「世界の端つこココよといひぬ」にするとか
少し工夫が必要かと思いました。
 
Posted by 伊波虎英 at 2011年03月10日 00:49
 僕は、この歌でも擬人法が生きてはいないようにおもいます。
 擬人法のマイナス面は、リアリティーがなくなる。逆に、ファンタジィー的・幻想的にはなりますが。
 読者に感じさせるべきところを、言い過ぎになる、などの傾向があるとおもいます。
 この歌でも、「鯉の大きな口はまるで「世界のはしつこ」のように感じられた」、あるいは「他界への入り口(?)のよう」という意味内容のことを断定的に表現する、などが考えられるとおもいます。
 体言止めやオノマトペや倒置法などと同様に、自分の歌における擬人法の使用率(割合)を常に考えておくのは大切なことだとおもいます。ちなみに、僕は99.75%くらいは使用しません。
Posted by 山寺修象 at 2011年03月10日 08:34
「ぬおおん」「鯉」と来るので、一読してすぐ、伊波さんの挙げておられる河野裕子の歌を思い浮かべました。「ぬおおんと」、「口あけ」の助詞省略、「はじつこここよ」と全体に子供っぽい口調なのも、余計に河野裕子の歌を連想させます。こうした連想が働くことが、この歌で作者が表現しようとされていることにプラスになるかマイナスになるか、微妙なところだと思います。歌全体の姿が、いかにも大きな鯉のようにのったりしていて、その点、とても面白いとは思うのですが。
Posted by 大室ゆらぎ at 2011年03月10日 15:51
先行の皆さんの評を読むと、ほんとうに勉強になることばかりです。
オノマトペ、河野裕子さんの歌、擬人法。

それでも「世界のはじつこここよといひぬ」に、作者がこころの中でつぶやいている様子が思えて、ここは平仮名の連なりでいいのではないかと思えて、わたしは好きです。
Posted by 弘井文子 at 2011年03月27日 09:56

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