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第5回ネット歌会詠草/27
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2011年05月01日
第5回ネット歌会詠草/28
何を願ふわけでもなくて白木蓮そらをあふぎて咲く途をゆく
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posted by 短歌人会 at 00:01|
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第5回歌会
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この記事へのコメント
三句以下の語順が巧みで、歩いているとき、ふと白木蓮が咲いているのに気付き、同時に背後の空が目に入ってくるときの感じを上手く表しているのではないかと思いました。「咲く途をゆく」というのですから、白木蓮は一本だけではなくて、いくらか続いているのでしょう。
「そらをあふぎて」:人が空を仰ぐとき、そこには何かしら遠いものに対する気持、遠くて届かないものに対する祈りや願いのような心持が沿って来るものではないでしょうか。「何を願ふわけでもなくて」と作者は詠い出しますが、「そらをあふぎて」という姿勢自体に、願いの気配を感じます。一、二句は、三句以下を導き出すためのフレーズで、特に何を願うわけではないが、というような意味と取りました。「願」のお題にも適った、広がりのある歌だと思います。
初句三句の六音も上手く納まっています。
Posted by 大室ゆらぎ at 2011年05月10日 15:24
「願」のお題で、「何を願ふわけでもなくて」と切り出すところが、まず巧みです。
初句のぽろっとこぼれたような六音や、はずむような三句の六音のリズムやテンポもよく、一読したときから惹かれていた一首ですが、大室さんの丁寧な読みに助けられて、さらに良さが味わえるようになりました。ありがとうございます。
Posted by 春野りりん at 2011年05月11日 06:20
何を願ふわけでもなくて白木蓮そらをあふぎて咲く途をゆく
「そらをあふぎて」というのは、作中主体が空を仰いでということではなくて、
白木蓮が空を仰いで咲いているということでしょう。
「何を願ふわけでもなくて」というのも作中主体がというわけではないのでは。
この歌の語順からでは、大室さんの読みには少し無理があるように思います。
何を願ふわけでもなくて白木蓮咲く途をゆくそらをあふぎて
であれば大室さんの読みの通りでしょうが、
1首の魅力は半減するように思います。
何を願うわけでもなくただ空を仰いで咲いている白木蓮、そして
その花に心を揺さぶられながら歩いている作中主体、
というのがこの歌の肝ではないでしょうか。
作者の意図がそうであれば、作中主体の感慨が
じんわりと読み手にも伝わって来るいい歌だと思いました。
Posted by 伊波虎英 at 2011年05月14日 12:20
「何を」から「咲く」までが「白木蓮」の説明だと思います。
「何を願ふわけでもなくてそらをあふぎて咲く白木蓮」と
言葉の順序をかえたらわかりやすいでしょうか。
何か願いごとをしているわけじゃないのに(天に祈っているみたいに)
空を仰いでいる白木蓮が咲いている…そんな途を歩きました、という歌意かと。
白木蓮の暖かみのある白い花の色、(花びらが肉厚なんでしょうか、
白百合なんかの青の入ったような冷たい白とは違うカンジの白)
また、あの小鳥が群れてるみたいにわらわら咲いている雰囲気などを
上手く表現されていると感じました。
Posted by 砺波湊 at 2011年05月16日 14:47
>何を願ふわけでもなくて白木蓮そらをあふぎて咲く途をゆく
上句は単純に作者の気持ちと解釈しました。三句目で白木蓮が出てくるので、ここからは作者と白木蓮が一緒に行動しているように思われます。渾然一体となっている作者と白木蓮のゆるい雰囲気に好感を持ちました。
Posted by 近藤かすみ at 2011年05月16日 22:49
わたしもこの作品にとても心惹かれました。
皆様の解説を読んで自信が無くなってしまったのですが・・・「何を願ふわけでもない」と「途をゆく」のは作者。「そらをあふぎて」と「咲く」が白木蓮の説明だと読ませていただきました。
いっせいに白木蓮が咲き始めると、たくさんの合わせた手が願い事をしているようにも見える。それに対して作者はそういう必死さが無い、空虚あるいは平穏な心の状態で時を過ごしている。
「途」を使われているので「冥途」を連想しました。
Posted by 三田村まどか at 2011年05月16日 23:21
一読してすっと入ってくる、力みのない歌でした。
「何を願ふわけでもなくて」で「願」という題をさらっと交わしてしまった感もありますが、「そらをあふぎて」咲く白木蓮を持ってきたことでとても自然な「願」のイメージが出たと思います。
大室さんの批評のなかの「願いの気配」の部分にとても共感しました。
Posted by 岩下静香 at 2011年05月20日 04:16
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初句三句の六音も上手く納まっています。
初句のぽろっとこぼれたような六音や、はずむような三句の六音のリズムやテンポもよく、一読したときから惹かれていた一首ですが、大室さんの丁寧な読みに助けられて、さらに良さが味わえるようになりました。ありがとうございます。
何を願ふわけでもなくて白木蓮そらをあふぎて咲く途をゆく
「そらをあふぎて」というのは、作中主体が空を仰いでということではなくて、
白木蓮が空を仰いで咲いているということでしょう。
「何を願ふわけでもなくて」というのも作中主体がというわけではないのでは。
この歌の語順からでは、大室さんの読みには少し無理があるように思います。
何を願ふわけでもなくて白木蓮咲く途をゆくそらをあふぎて
であれば大室さんの読みの通りでしょうが、
1首の魅力は半減するように思います。
何を願うわけでもなくただ空を仰いで咲いている白木蓮、そして
その花に心を揺さぶられながら歩いている作中主体、
というのがこの歌の肝ではないでしょうか。
作者の意図がそうであれば、作中主体の感慨が
じんわりと読み手にも伝わって来るいい歌だと思いました。
「何を願ふわけでもなくてそらをあふぎて咲く白木蓮」と
言葉の順序をかえたらわかりやすいでしょうか。
何か願いごとをしているわけじゃないのに(天に祈っているみたいに)
空を仰いでいる白木蓮が咲いている…そんな途を歩きました、という歌意かと。
白木蓮の暖かみのある白い花の色、(花びらが肉厚なんでしょうか、
白百合なんかの青の入ったような冷たい白とは違うカンジの白)
また、あの小鳥が群れてるみたいにわらわら咲いている雰囲気などを
上手く表現されていると感じました。
上句は単純に作者の気持ちと解釈しました。三句目で白木蓮が出てくるので、ここからは作者と白木蓮が一緒に行動しているように思われます。渾然一体となっている作者と白木蓮のゆるい雰囲気に好感を持ちました。
皆様の解説を読んで自信が無くなってしまったのですが・・・「何を願ふわけでもない」と「途をゆく」のは作者。「そらをあふぎて」と「咲く」が白木蓮の説明だと読ませていただきました。
いっせいに白木蓮が咲き始めると、たくさんの合わせた手が願い事をしているようにも見える。それに対して作者はそういう必死さが無い、空虚あるいは平穏な心の状態で時を過ごしている。
「途」を使われているので「冥途」を連想しました。
「何を願ふわけでもなくて」で「願」という題をさらっと交わしてしまった感もありますが、「そらをあふぎて」咲く白木蓮を持ってきたことでとても自然な「願」のイメージが出たと思います。
大室さんの批評のなかの「願いの気配」の部分にとても共感しました。