この記事へのコメント
願人坊主とは、諸国を徘徊して門付・大道の芸能にたずさわった僧侶のこと、
破戒僧や食いつめた者がなることも多かった…(グーグルの検索結果より)
そうなので、傀儡回しなどの漂泊の芸人に近いみたいですね。
「願」の題詠で「願」を含んだ語をもってきて「お願い」みたいな意味から
ずらそうとした工夫はいいなぁと思います。
前世のそのまた前世でようやく願人坊主であったなら嬉しいな、ということは
現在は漂白や物をもたない暮らしとはほど遠い自分だということでもあるのでしょう、
軽い内容のようでいてちょっと寂しげでもあるなぁと感じました。
Posted by 砺波湊 at 2011年05月12日 16:56
前評の砺波さんのコメントに共感します。


とても好きなお歌です。

調べが心地よく自然で、時空の茫洋とした広がりがあり、
結句が決まっています。

たぶん現世の作者は「願人坊主」とは
ずいぶん遠い生き方なのだろうと想われます。
が、それでも作者の心の中には「願人坊主」の世界が
たしかに存在しているように思えてきます。
Posted by 梶崎恭子 at 2011年05月16日 10:54
「たどれば」と「なれば」、共に「已然形+ば」で、意味を取ろうとすると、「(自分の)前世をたどると願人坊主なのでうれしい」となるかと思います(前者は、以下の事柄に気付いた契機を表す「ば」、後者は原因・理由を表す「ば」)。
古語の「願人坊主なれば」(断定の助動詞「なり」の已然形+ば)で、「願人坊主ならば」あるいは「願人坊主だったら」ということを表すことは出来ないと思います。
作者の意図はどちらにあるのでしょうか?
Posted by 大室ゆらぎ at 2011年05月16日 16:10
大室さんと同じ疑問をもち、文語で詠む者にとって、已然形は落とし穴だということを、自戒を込めて感じました。
ひとつめの「ば」は、「並列的・対照的に前後をつなぐ」(全訳古語辞典)意味で「前世をたどり」という意味になるので、意味的にはこれでいいと思うのですが(「前世その前世とたどり」とすると、已然形+「ば」の二度使いは避けられます)、後者の「ば」については、本当は未然形で詠まれるはずのものだったのではないかという疑問が残ります。
前世をどのように捉えるかは、かなり個人差のあることと思いますので、作者の方があえて已然形を使われているのであればいいのですが、それでも、そのような誤解をはさむ余地を残さないような表現のほうが、なおよいのかもしれません。


Posted by 春野りりん at 2011年05月16日 18:37
「願人坊主なれば」は春野さんがたいへん謙虚に遠慮がちに書かれていますが、文語では正しくは「願人坊主ならば」だと思います。この場合意味は、もしも願人坊主だったならばうれしい、という順説の仮定条件としか取りようがないと思いますので、未然形に接続する以外ないと思います。
もっとも斎藤史の高名な歌、<死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも)のように、「てらさば」が正しいと思われるのに「てらせば」で通用している例もあるし、口語文語ミックス体がごく普通になっている現在こんなことをうるさく言う人はごくごく少数派なのかもしれません。
Posted by 永井秀幸 at 2011年05月17日 17:21
永井さんが「遠慮がちに」とおっしゃってくださいましたが、作者の方の意図が本当にわからないのです。
たとえば催眠療法を使って前世をさかのぼるという方法も最近割合にはやっており、それを信じている方にとっては、前世において自分が何者であったかを知っているという表現になるかと思います。
ただ、内容的に一般には未然形で書かれるべきものですし、この一首からは文語口語混用とは読めないので(そういう作歌方法ならば、それを示す表現をどこかに用いた方がいいように思います。あるいは他の作品と並べたときにそう読めれば足りるのかもしれません。)、誤読のおそれを感じさせてしまうのは、歌としてもったいない気がします。
こういう場で、鑑賞者が代替案を示すのはまことに失礼なことかもしれませんが、ふたつめの已然形の意味を残すならば、たとえば(決していい例だとは思っていません)
前世その前世たどれば風来の願人坊主なりてうれしき
とすれば、誤読のおそれを感じさせずに、一首に寄り添うことができるようになるのではないでしょうか。
長々と失礼いたしました。
Posted by 春野りりん at 2011年05月18日 06:19
春野さんの言おうとしていたこと例歌などを通して良く分かりました。
Posted by 永井秀幸 at 2011年05月18日 17:36

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