この記事へのコメント
17番の歌と共に目の付けどころに感心した歌でした。絵馬を題材にしたのが成功していると思います。
秀歌とまでは言いませんが、絵馬を掛けるとき掛けてある他人の絵馬と比較して、その願い事の大きさだけは負けてはいないぞと正に負け惜しみを言っているようで面白く気がきいていて引かれました。
ただし、そんなに大きな願い事がはたして叶うのかなあとそっちの方は気になります。
Posted by 永井秀幸 at 2011年05月06日 16:45
「絵馬かけるときひとの絵馬みて」
に実感がこもり、かつリズムがとてもいいと思いました。
ひとの絵馬を見る(つまり覗く)ときの、なんとも言えない
(覗いてる)吾も(そんな願い書く)彼らも小市民なりー、
というような気持ちが、綺麗すぎず、笑いをとるわけでも自虐するわけでもなく、
淡々と表れていると思いました。

ただし、ここには少しの謎があって、
絵馬は今では規格品としてその寺社ごとに販売されているわけで、
絵馬の物理的な大きさは同じである(ので負けてない)、ということにもとれますし、
絵馬に書いてあるお願い事のその文字の大きさは負けてない
(どころか、こっちの方が大きいんや、とか)ということにもとれます。
上記はどちらも物理的大きさですが、
客観的にははかることのできないはずの願い事の大きさまで
ひとの絵馬と比べて大きいと思えるということにももちろんとれます。

この歌の場合は、何種類にもとれるおかしみが面白く、かつなんだか切なくも感じました。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2011年05月08日 03:40
 永井さんと同様に「その大きさ」は願い事の内容の大きさのことだとうけとりました。
 下句に「絵馬かけるときひとの絵馬みて」と絵馬が二度出てくるので、勺さんのような三つの受け取り方にも結びついたのかもしれませんが、普通にはやはり、最後の読み、だけにしかとれないのではないでしょうか。
 ひとの絵馬を見なければ、そういう判断も全く断定形ではできないはずなので、「ひとの絵馬みて」が無いかたちで作ったら、もっとすっきりとして、言い過ぎ感のない作品になる可能性があるとおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2011年05月08日 08:34
禰子さんの「小市民的」という言葉を借りるならば、人の絵馬をのぞき見てしまうこと、そして本来ならば比べるべくもない願い事それ自体の大きさを人と比較してしまうことの小市民的なおかしみや哀しさが、「負けてない」という口語でうまく詠われていると思いました。

「大きさは」の「は」が哀愁を漂わせているのだと思います。

Posted by 春野りりん at 2011年05月08日 08:36

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