2011年05月01日

第5回ネット歌会詠草/2

厭離穢土欣求浄土を願ふ目に線香花火きらきらと散る
posted by 短歌人会 at 00:27| Comment(9) | TrackBack(0) | 第5回歌会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「厭離穢土欣求浄土」(え(orお)んりえどごんぐじょうど)は,煩悩にけがれた現世を嫌い離れ,極楽浄土に往生するように心から願い求めることですね。初句二句にぴったりと収まる仏語をうまく見つけられたと思います。
線香花火のように,ほんのひとときだけ現世に生きて散ってゆきたいという心情が美しく詠われています。
線香花火が「きらきらと散る」という表現に惹かれました。きらきらと生きているということは,とりもなおさずきらきらと死につつあるということでもあるのですね。
そして,作中主体は,現世が煩悩に穢れていると言いながらも,現世に光る線香花火の美しさを心の底では肯っているところに,この一首の深みがあるように感じました。
「きらきら」がオリジナリティのあるオノマトペになればいっそう印象が強くなるようにも思いました。
Posted by 春野りりん at 2011年05月06日 06:08
厭離穢土欣求浄土は、今は言わない。
安土桃山江戸にかけて、圧制の下にあった人々が一向一揆という形で死を決して蜂起したときによく言われた言葉だと記憶します。

そんな歴史的背景を思いながら、「厭離穢土欣求浄土を願ふ目」と読むと、リアルな作者の目とは思えない。自分で自分の目をそんな風に言えるとは思えない。
さらに言えば「願う目」という表現自体に第三者の目を示唆するニュアンスが強い。

きらきらは平凡でもったいない。
Posted by 長谷川知哲 at 2011年05月07日 14:41
>厭離穢土欣求浄土は、今は言わない。

長谷川さんのこの言い方は失礼この上ないと思います。
「今は言わない」で切り捨てられたら、
ではこの文字はただの記号なんでしょうか?
この言葉は完全なる死語なんでしょうか?
そんなことはないはずです。五百歩譲って仮に死語であったとしても、
「今は言わない(から歌にしてはいけない)」とはならないのではないでしょうか。
今は言わないから詠まない、詠むべきではない、というのは
無用の自己規制の一種であると私は考えます。

>リアルな作者の目とは思えない。自分で自分の目をそんな風に言えるとは思えない。

これもまた、では作者はどういう思いでその虚構を詠んだのかを書くならまだしも、
これでは評になっていないと思います。

「厭離穢土欣求浄土」で最初に思い出したのは、藤枝静男の小説のタイトルでした
(「厭離穢土」と「欣求浄土」は別の短編だったと思いますが…)。
内容はさっぱり忘れてしまいましたが、
各四文字のタイトルが強烈で20年近く前の文庫本のことを覚えています。
呪文のような言葉ですが、漢字だけでも訴えかけてくる
エネルギーを放ち続けている存在感のある語と思います。

また、厭離穢土欣求浄土という願いの方向と、線香花火の消えゆく方向というのは、
生命の(必ず向かう死への)方向を心理的・映像的に端的に表していて、
読者としてはつかみやすいと思います。
ただ、そのつかみやすさを「つきすぎ」と取るかどうかは微妙で、
その微妙に納得をさせるだけの表現が必要になるのではないか。
この場合「きらきら」は来世への渇望と現世への哀惜を語るには
説得力という点では弱いのかなと思います。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2011年05月08日 03:08
なにをもって激高されるのか、わたしとしては困惑していますが、若干の補足をします。

厭離穢土欣求浄土という言葉は、一向宗門徒が唱えた言葉です。背景は壮絶なもので、戦国時代にどれだけの人々が亡くなって行ったか分らないほどです。一向一揆の精神的な支柱であって、荒々しくも壮絶なものです。進んで死ににゆくという覚悟であり、怖ろしくも血塗られた言葉です。

現在の門徒、浄土真宗の人々は言うに及ばず、一般の仏教信徒が、この精神を掲げるのを目にし、耳にすることはありません。
ひとつの武力革命の精神的スローガンでしたから。

そういう意味で、今は言わない、そう書きました。以上の私の理解がまったく的外れで間違っていれば、撤回いたしますし、作者が不快に思われたのであれば、意図外のことであり、謝罪いたします。

しかしこの勺さんの激高は、正直わたしには分らない。
Posted by 長谷川知哲 at 2011年05月08日 13:32
わたくしがお伝えしたかったのは、
厭離穢土欣求浄土の歴史的解釈についての
見解の是非をただしてほしいということではなく、

>今は言わない。
>作者の目とは思えない。
>そんな風に言えるとは思えない。

と、立て続けに断定・否定される、
その批評スタイルに疑問を感じたということです。

言わない、思えない、
なら、
どう伝わってこないのか。

そこまで寄り添う必要がないとするならば、
思えないからどうすればいい、
というコメントをしてこそ、
この場は有用になるのではないでしょうか。

理解が的外れかどうかということではないと思います。
それは各々が歌から自由に感じることですから。

わたしには、
長谷川さんの態度(文面、ですね)から、
歌に相対している風が読み取れませんでした。
読み取りの力不足なのかもしれませんが、少なくとも断定したからには、
その断定の理由を、歴史云々ではなく、
歌としてどうしてだめなのかをきちんと述べないと、
斬られた方はわけがわからない。

ネット会場はまったく言葉だけの世界です。
通常の歌会よりも、さらに言葉に責任をもつ必要があるのではと思いましたので、
あえて書かせていただきました。
Posted by 勺 禰子(しゃく ねこ) at 2011年05月09日 12:45
厭離穢土欣求浄土という宗教思想の重さを理解せずに、あまりに軽い気持ちで言葉を感じだけで使っているのではないか。
言葉はもっと厳しいものではないか。
甘すぎるのではないか。

なにごとも、軽い感じだけで、言葉をならべて行こうとする、つまり言葉に責任などもつ必要はないとする現代の一定の風潮に、このままでは乗っかってしまう恐れを感じて、一石を投じるつもりで書いたのです。

言葉には意味がある。背景があり、歴史がある。それを無視してはいけないのではないか。ぼくの批評の意図ではなく、態度を責めるというのは、もはや歌会の批評とは思えない。

この歌に真剣に対したから、ぼくの言葉で批評させてもらったのです。

>その断定の理由を、歴史云々ではなく
というくだりは全く的外れと言わざるをえない。歴史認識なしには使えない言葉というものがあるのです。
なにかほんわかと良さそうだ、そんな程度で言葉を判断してはいけない。
言葉を詠むほうも、読むほうも、言葉に責任を持って詠み且つ読む必要があるのではないか、そう思っています。
Posted by 長谷川知哲 at 2011年05月09日 23:33
やや感情的なやりとりになっていらっしゃるようなので、少々コメントを。
「厭離穢土欣求浄土」の宗教的な背景はよく知りませんでしたが、歴史好きな者としては徳川家康の旗印として有名な文言です。石田三成の「大一大万大吉」とともに、現代でも時代劇でよく見かけます。使用されるかどうかはともかくとして。
「言葉に責任を持って詠み」という長谷川さんのご意見は尤もと思いますが、作者の方がどの程度の知識を有しているのか、「あまりに軽い気持ち」であるのか否か、少なくとも私は本作品から判断できません。
私の鑑賞としては春野さんのご意見にほぼ一致します。また、「きらきら」というオノマトペについては、前評者お二人のおっしゃるとおり、動きうると思います。
Posted by 村田馨 at 2011年05月10日 13:22
厭離穢土欣求浄土という言葉は一般的には穢れたこの世を厭い、美しい浄土を求めるというほどの意味でいまでも結構使われているように思います。長谷川さんが書かれているような仏教的な背景を理解したうえで使われている場合のほうがむしろ例外的のような気がします。
僕もこの歌は今回の詠草のなかでは良い方の歌と思い印を付けてあります。読みは春野さんとほぼ同じです。
ただし長谷川さんの言われていることも分かり、いままで何回かこの言葉を使ってきたような覚えのある僕ですが、これからは安易に使えないかなあとも思っています。
Posted by 永井秀幸 at 2011年05月10日 16:54
「厭離穢土欣求浄土」という言葉は、高校の日本史の時間に習いましたが、長谷川さんがお書きのような重い背景を背負っていることまでは知りませんでした。私がこの言葉に抱いているイメージは、永井秀幸さんと同じです。ある言葉の歴史的背景は、知っているにこしたことはないし、知らないでつかっていると感じたときは、私もあまり愉快ではない感情をもちますが、だからその言葉をつかってはいけないとは言えません。つかってほしくなかった、もしくは、この歌のなかでは、その言葉が生きていないという表現を選びます。それで、この一首に関しては、みなさまがすでに書いているとおり、重い上句を下句の「きらきら」が支え切れていないということに尽きると思います。腰砕けで、もったいないですね。
Posted by 藤原龍一郎 at 2011年05月10日 22:34

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