この記事へのコメント
「パキラの幹が」太くなっていることに気付き、その「幹がふたまはり太」る間に経った時間が、そのまま「きみの不在」後の時間であった、と改めて思う。
「きみの不在」は、もちろん一時的な不在ではなくて、二度と戻って来ることのない不在を言っているのでしょう。「きみ」は、人間かも知れないし、そうでないかも知れません。
忘れることは出来ないけれど、その「不在」の時間は、一方で植物を成長させるような時間でもあった。「ふたまはり太りて」という表現には明るさがあり、時間と共に「不在」を穏やかに受け入れようとしている気配を感じます。
「窓に立つ」とか「窓の辺の」とか、定型に納める方法は多々あると思うのですが、それを「窓辺に立つ」と六音にされているのは、何か理由があってのことなのでしょう。
Posted by 大室ゆらぎ at 2011年07月10日 17:42
「墓木(ぼぼく)已(すで)に拱(きょう)す」という春秋左氏伝の成句があります。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/118178900010/

これと基本的な発想・イメージは(たまたま)酷似していますが、この歌には近代的で上品な感覚があって、たいへん好ましく思いました。

なお、一句目「窓辺に立つ」は、単なる推敲不足と見ました。
こういう端正な作品は、できれば韻律も合っていてほしいと期待してしまいます。
・・・「窓辺なる」でどうでしょうかね。
Posted by 坂本野原 at 2011年07月12日 12:49
初句の字余りは気になりましたが、元気に育っているパキラを
強調するための「立つ」であれば、作者としては韻律をあえて
捨てたのでは?という気もします。
パキラの力強さを強調するのであれば「窓に立つ」で定型にするのがよいでしょう。
私は、この「不在」に永遠の別れのようなものは感じられませんでした。
むしろ若い息子さんで進学のために家を離れた、とか
ともに暮らす人が単身赴任などでしばらく離れて暮らしている、
といった情景を思い浮かべました。
パキラというのは、ことに春から夏にかけ大きく早く成長する木ですから、
そのような印象を持ちました。
「不在」であることは私にとって寂しいことであるけれど、遠い地で君も
このパキラのごとく元気で暮らしているだろうという想いのように感じました。
Posted by 三島麻亜子 at 2011年07月14日 17:35

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