この記事へのコメント
上の句はなかなか面白いと思うのですが、下二句が端正すぎるというか、正直言って凡庸でしょうか。

なんとなくどこかで読んだような既知感がある組み立てで、「夏の夕暮れに途方に暮れ」ているというのも、状況説明的・散文的、つきすぎな感じがします。

下の句に、大胆で意外性のある推敲を望みます。
Posted by 坂本野原 at 2011年07月09日 13:36
 伝聞から始まる工夫を面白く読ませていただきました。久しぶりに訪ねた町で、馴染みだった店を探しあぐねていると『「二丁目のトニーズバーはもう無い」と』いうことを、おそらくは通りがかりの人から聞いたのでしょうか。店があることを疑いもせずに訪ねていけば、既に閉められていたということには戸惑いもするでしょうが、「途方に暮れる」程の状況となるのかという点については若干疑問が残ります。
Posted by 村上 喬 at 2011年07月10日 11:07
トニーズバーとは、2009年12月29日に閉店した新橋のバーでありましょう。
開店したのは1952年、短歌人のメンバーでいえば藤原龍一郎が生まれた年。

「新橋の」と言わず、まるで「五番街」ふうに「二丁目」というのも、世代的な臭みかもしれません。

したがって、トニーズバーを久しぶりに訪れようとして、それが無いことを知った、というより、時代(世代)の象徴であったトニーズバーがもう無い、と思うと、つくづく俺も歳をとったものだぜ、という感慨であろうと思います。

この途方に暮れる、というのは、(季節は違うが)「見渡せば花も紅葉もなかりけり」に近い気分だと思います。

いかがでしょう。
Posted by 西王 at 2011年07月10日 15:03
ある時代の象徴である名店が閉じられるというのがこのところよくあります。
時代のニーズに合わなくなったり、店主が年老いたりというのが理由です。
こうした大人の、文化人の寄る店がなくなっていくさみしさは常連であれば
人生を失うに近いさみしさがあるかもしれません。
思い入れが強いからこその「途方に暮れる夏の夕暮れ」の寂寥感であり、
ここを大胆に改作してしまうと、違った歌になってしまう気がします。
Posted by 三島麻亜子 at 2011年07月10日 18:48
何となく既知感があると申し上げましたが、その淵源が、なんと、和歌の最高峰であり到達地点とも評される、藤原定家の

「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ」(新古今和歌集 363)

「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪のゆふぐれ」(同 671)

にあるという西王さんのご指摘に、ノックアウトされました。
なるほど、藤原さんでしたか〜。

http://plaza.rakuten.co.jp/meganebiz/diary/201012010000/

菱川善夫以来久しぶりに、短歌における批評の力を再認識させられました。

・・・なお、私はしばし再起不能であります^^;
Posted by 坂本野原 at 2011年07月11日 09:34

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