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二十四と虹のいろを数へる民族はおそらく存在しない
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この記事へのコメント
二十四という数を作者はどこから思いついたのであろう。虹の色数の認識は、民族によって違う。一番多いのは8色で、アフリカ・アル部族。一番少ないのは2色とするもので、これは日本・沖縄地方、シベリア・エヴェンキ族、南アジア・バイガ族、アフリカ・バサ語族などある。この作品は散文なので短歌としての評価は困難だが、記述内容は間違いでない。
Posted by 秋田 at 2011年09月05日 09:24
「この作品は散文なので・・・」と秋田さんは書かれていますが、一応歌会に出されている作品ですから短歌であろうという前提で読みました。そうすると、「二十四と/虹のいろを数へる/民族は/おそらく/存在しない」とでも句切るのでしょうか。どうもうまく句切りがつかめません。むしろ、「二十四と/虹のいろを数へる/民族は/おそらく存在しない」と句切って、第4句が欠如していると解した方が妥当なようにも思います。「民族は」の後に「・・・・」を挿入して第4句(のすべてまたは前半)を休止符とする、という手もあるのではないかな? とも思いました。
「虹は何色か」というのは、人間は世界を如何ように認識するのかということをめぐって、人間の認識は実在の世界をそのまま「反映」するわけではない、という議論をする時によく言及される例です。パラダイム論とも親近性のある議論です。
が、それにしても24色は無理だろう、いくら人間は世界を「構成」して認識すると言っても、そこにはおのずと世界の側からの拘束があるだろう、ということを言われている歌なのだろうか、と思いました。
ただ、そうだとすれば、そういうことを言うには、歌よりも散文の方が適しているのではないか? と、つい言いたくなってしまいます。
Posted by 斎藤 寛 at 2011年09月09日 07:21
要するに、あらゆる意味で短歌になっていませんね。
Posted by 坂本野原 at 2011年09月09日 09:30
この作者の方は「二十四=に+じ=にじ(虹)」との語呂合わせに日本人には一般に七色と言われている虹のいろの数の曖昧さをかけて詠おうとしたのではないかと思いました。先にコメントした方々の批評も判るのですが、私は「虹は日本人は七色と思いこんでいるだけで本当は何色なのかは判らないこと」「虹の色は何色かという認識は民族によって違うこと」に着目して作られた点は面白いなと思いました。
Posted by 照井 夕佳詩 at 2011年09月09日 18:27
もう少し丁寧に分析しておきたい。
(1)二十四という数は、三原色を基本として、6色、12色、24色、48色などとクレヨンや色鉛筆のセットの色数から出たものであろう。
(2)短歌としてのリズムについては、小池光さんの「リズム考」(『短歌研究』(2007
年7月号)「短歌を考える」や『街角の事物たち』「リズム考」)が参考になる。
先ず一首のリズムの骨格を決定して行くのは、初句三句結句の奇数句なので、そこを五五七と押さえることにすると、この歌の句切は次のように五十五四七とするのが意味の上からも自然であろう。
二十四と➝虹のいろを数へる➝民族は➝おそらく➝存在しない
二句目が大幅な字余りだが、ここは許容度大。四句が四音でこれが禁制に引っかかる。四句の字余りは許容度大だが、減音は禁制度大とされる。ここで短歌らしさが失われている。
Posted by 秋田興一郎 at 2011年09月09日 20:08
性的マイノリティの団体がよく虹のマークを象徴的に使っていたり、
オリンピックの五輪も虹からきていると聞いた気がするんですけど、
嗜好や人種・民族の多様性を示しているのだったと思います。
この歌では、二十四という(虹の色にしては)大きな数字を出すことで
多様といってもどうせ五や七くらいにしか数えないんでしょう、という
批判の気持ちを、「人間」ではなく「民族」を持ってきたことも含めて
こめているのかな、と感じました。
ただ、二十四という数字が七に比べてどうか、また初句としてどうか、
というとそれほど効果的かは疑問に思います。
(二十四色というとクレヨンのセットなどの子供の道具を連想する、と
いう指摘は面白いなぁと思いました。)
それからリズムについては、57577になっていないため、
わたしはどうしても意味内容から見てしまうのですが……
「二十四と虹のいろを数へる民族は」=前半
「おそらく存在しない」=後半
というカンジで、後半が短く断ち切られたようになるので
バランスの悪さ・収まりの悪さを感じてしまいます。
57577でなくても良いリズムというのはあると思うのですが。
それから、この歌への意見ではないので
この場所に書き込むのは適切でないかもしれませんが、
内容と表現方法のどちらに対してもどう考えるかを説明せずに
「要するに、あらゆる意味で短歌になっていない」とだけ
言うのは、ウェブとはいえ歌会での発言としてふさわしくないと
思います。
Posted by 砺波 湊 at 2011年09月13日 15:34
来た〜っ!
分かりました。私が軽率でした。
本当に、心底反省しております。
以後、重々気をつけます。
・・・いや、本当。
Posted by 坂本野原 at 2011年09月13日 16:23
虹が何の寓喩なのか読み切れずにいたので,砺波さんの解釈に納得しました。
私も,24色という数からクレヨンや色鉛筆を思い浮かべたのですが,最近は100色などの色鉛筆もみかけるので,やや中途半端な感じになってしまったのかもしれません。
せっかくの歌会ですから,お互いに敬意をもって鑑賞し合い,有意義な場にできればと思います。
Posted by 春野りりん at 2011年09月13日 17:29
砺波さんの読み方はある種の“深読み”なのではないかと思いました。
「虹のいろ」は喩としてではなく字義通りに受け取るのが良いと思います。
それに、“多様なるものの共存”の哲学は、24どころか3ケタでも4ケタでも限りなき多様性を認める方位へ行くと思うので、いくらそう言っても24色までは言うまい、というのは批評としても成り立たないように思います。「民族」の語も、あなたはまだ「民族」なんて言っているんですか? 私たちはとうに「エスニシティー」と言っていますよ、という反論に遭うんじゃないかと思います。
Posted by 斎藤 寛 at 2011年09月13日 21:22
二十四と虹のいろを数へる民族はおそらく存在しない
かなりの破調で、今回のお題は「色彩を読み込む」ということだったのに
具体的な色も詠み込まれていませんね。深読みするのはよくないでしょう。
作者はこの通りのことを思って、それをそのまま1首にしたのだと思います。
坂本さんの「要するに、あらゆる意味で短歌になっていない」という発言は、
前者のコメントを受けてのものなので問題ないんじゃないでしょうか。
それよりも、砺波さんのコメントを受けての坂本さんのコメントの方が僕は不愉快に感じました。
Posted by 伊波虎英 at 2011年09月14日 02:06
まいったなあ。
もう本当に勘弁してくださいよ。
「来た〜っ!」と「・・・いや、本当。」にカチンと来ましたか?
反省しているのは本当ですので、このぐらいの茶目っ気は許してくださいよ^^;
私はシャレがキツイので、こういうことは人生でしばしばありましたので、またやっちまったか〜と思っております。
・・・あと、「民族」は「エスニシティ」といわなければならないんですか?
「公(おおやけ)・公共」は「パブリック」とか?
それらは、一種の政治・思想的な含みがある言い換えですよね。
ちょっと見逃せないと思いました。
Posted by 坂本野原 at 2011年09月15日 09:59
歌評からはなれますが、「民族」と「エスニシティー」について坂本さんが質問を書かれていますので、その点についてお答えします。
だいたい、「民族」を厳密に定義しようと思うと、そこからして難しいんですけど、現在、「民族」と「エスニシティー」についておおかたのひとびとがおおよそ共有しているであろうと思われる理解のしかた、ということで言えば、次のようなことになると思います。
まず、「エスニシティー」は「民族」の言い換えではありません。イメージとしては、「民族」をもっと分節化したのが「エスニシティー」だ、と考えてよいと思います。例えば、日本民族と括られる者たちの中でも、縄文系と弥生系があったり、また、東北人と関西人とでは相当に気質が違ったりしますが、そういうのを表すのが「エスニシティー」です。ですから、「エスニシティー」は視点の取り方によって限りなく多様になります。
上記の斎藤のコメントで、あなたはまだ「民族」なんて・・・・・・、と書いたのはちょっとわかりにくかったと思いますが、差異ある多様な者たちが共に生きる、というふうに言う時に、それは多民族共生という次元だけではすまず、多様なエスニシティーの共生という次元まで、当然話は進むでしょう、というような意味で記したつもりでした。
砺波さんのコメントの冒頭で書かれている性的マイノリティーの話で言えば、「男」「女」と二つに括るのが「民族」に該当する括りで、さまざまな性的マイノリティーのありようを視野に入れて「n個の性」というふうに言えば、それは「エスニシティー」という視点に該当する、ということになるだろうと思います。(あくまでこれは類比的に見れば、という話ですが。)ちなみに、《「女は大地」かかる矜持のつまらなさ昼さくら湯はさやさやと澄み》(米川千嘉子)への返歌として《性別がふたつしかないつまらなさ七夕さやさやラムネを開ける》(大滝和子)と詠まれたのは、前者が「男」「女」の視点、後者が「n個の性」の視点、ということになるのでしょう。(短歌をこんなふうに“読み解いて”しまうと、なんだかつまらないですけど・・・)
なお、歌評に戻って言えば、僕は2番目の(冒頭の秋田さんのコメントの次の)コメントに書きました通り、認識論にかかわることを言っている歌としてこの歌を読むのが良いと思います。
Posted by 斎藤 寛 at 2011年09月15日 15:14
気がつけば、おっしゃる通り歌評から離れておりまして、まことに恐縮です。
斉藤さんの、きわめて懇切丁寧なコメントに恐縮し、了解しました。
私の理解では、それは「ポストコロニアル理論」や「カルチュラル・スタディーズ」などに関わる思考でしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%AB%E7%90%86%E8%AB%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA
Posted by 坂本野原 at 2011年09月15日 16:29
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「虹は何色か」というのは、人間は世界を如何ように認識するのかということをめぐって、人間の認識は実在の世界をそのまま「反映」するわけではない、という議論をする時によく言及される例です。パラダイム論とも親近性のある議論です。
が、それにしても24色は無理だろう、いくら人間は世界を「構成」して認識すると言っても、そこにはおのずと世界の側からの拘束があるだろう、ということを言われている歌なのだろうか、と思いました。
ただ、そうだとすれば、そういうことを言うには、歌よりも散文の方が適しているのではないか? と、つい言いたくなってしまいます。
(1)二十四という数は、三原色を基本として、6色、12色、24色、48色などとクレヨンや色鉛筆のセットの色数から出たものであろう。
(2)短歌としてのリズムについては、小池光さんの「リズム考」(『短歌研究』(2007
年7月号)「短歌を考える」や『街角の事物たち』「リズム考」)が参考になる。
先ず一首のリズムの骨格を決定して行くのは、初句三句結句の奇数句なので、そこを五五七と押さえることにすると、この歌の句切は次のように五十五四七とするのが意味の上からも自然であろう。
二十四と➝虹のいろを数へる➝民族は➝おそらく➝存在しない
二句目が大幅な字余りだが、ここは許容度大。四句が四音でこれが禁制に引っかかる。四句の字余りは許容度大だが、減音は禁制度大とされる。ここで短歌らしさが失われている。
オリンピックの五輪も虹からきていると聞いた気がするんですけど、
嗜好や人種・民族の多様性を示しているのだったと思います。
この歌では、二十四という(虹の色にしては)大きな数字を出すことで
多様といってもどうせ五や七くらいにしか数えないんでしょう、という
批判の気持ちを、「人間」ではなく「民族」を持ってきたことも含めて
こめているのかな、と感じました。
ただ、二十四という数字が七に比べてどうか、また初句としてどうか、
というとそれほど効果的かは疑問に思います。
(二十四色というとクレヨンのセットなどの子供の道具を連想する、と
いう指摘は面白いなぁと思いました。)
それからリズムについては、57577になっていないため、
わたしはどうしても意味内容から見てしまうのですが……
「二十四と虹のいろを数へる民族は」=前半
「おそらく存在しない」=後半
というカンジで、後半が短く断ち切られたようになるので
バランスの悪さ・収まりの悪さを感じてしまいます。
57577でなくても良いリズムというのはあると思うのですが。
それから、この歌への意見ではないので
この場所に書き込むのは適切でないかもしれませんが、
内容と表現方法のどちらに対してもどう考えるかを説明せずに
「要するに、あらゆる意味で短歌になっていない」とだけ
言うのは、ウェブとはいえ歌会での発言としてふさわしくないと
思います。
分かりました。私が軽率でした。
本当に、心底反省しております。
以後、重々気をつけます。
・・・いや、本当。
私も,24色という数からクレヨンや色鉛筆を思い浮かべたのですが,最近は100色などの色鉛筆もみかけるので,やや中途半端な感じになってしまったのかもしれません。
せっかくの歌会ですから,お互いに敬意をもって鑑賞し合い,有意義な場にできればと思います。
「虹のいろ」は喩としてではなく字義通りに受け取るのが良いと思います。
それに、“多様なるものの共存”の哲学は、24どころか3ケタでも4ケタでも限りなき多様性を認める方位へ行くと思うので、いくらそう言っても24色までは言うまい、というのは批評としても成り立たないように思います。「民族」の語も、あなたはまだ「民族」なんて言っているんですか? 私たちはとうに「エスニシティー」と言っていますよ、という反論に遭うんじゃないかと思います。
かなりの破調で、今回のお題は「色彩を読み込む」ということだったのに
具体的な色も詠み込まれていませんね。深読みするのはよくないでしょう。
作者はこの通りのことを思って、それをそのまま1首にしたのだと思います。
坂本さんの「要するに、あらゆる意味で短歌になっていない」という発言は、
前者のコメントを受けてのものなので問題ないんじゃないでしょうか。
それよりも、砺波さんのコメントを受けての坂本さんのコメントの方が僕は不愉快に感じました。
もう本当に勘弁してくださいよ。
「来た〜っ!」と「・・・いや、本当。」にカチンと来ましたか?
反省しているのは本当ですので、このぐらいの茶目っ気は許してくださいよ^^;
私はシャレがキツイので、こういうことは人生でしばしばありましたので、またやっちまったか〜と思っております。
・・・あと、「民族」は「エスニシティ」といわなければならないんですか?
「公(おおやけ)・公共」は「パブリック」とか?
それらは、一種の政治・思想的な含みがある言い換えですよね。
ちょっと見逃せないと思いました。
だいたい、「民族」を厳密に定義しようと思うと、そこからして難しいんですけど、現在、「民族」と「エスニシティー」についておおかたのひとびとがおおよそ共有しているであろうと思われる理解のしかた、ということで言えば、次のようなことになると思います。
まず、「エスニシティー」は「民族」の言い換えではありません。イメージとしては、「民族」をもっと分節化したのが「エスニシティー」だ、と考えてよいと思います。例えば、日本民族と括られる者たちの中でも、縄文系と弥生系があったり、また、東北人と関西人とでは相当に気質が違ったりしますが、そういうのを表すのが「エスニシティー」です。ですから、「エスニシティー」は視点の取り方によって限りなく多様になります。
上記の斎藤のコメントで、あなたはまだ「民族」なんて・・・・・・、と書いたのはちょっとわかりにくかったと思いますが、差異ある多様な者たちが共に生きる、というふうに言う時に、それは多民族共生という次元だけではすまず、多様なエスニシティーの共生という次元まで、当然話は進むでしょう、というような意味で記したつもりでした。
砺波さんのコメントの冒頭で書かれている性的マイノリティーの話で言えば、「男」「女」と二つに括るのが「民族」に該当する括りで、さまざまな性的マイノリティーのありようを視野に入れて「n個の性」というふうに言えば、それは「エスニシティー」という視点に該当する、ということになるだろうと思います。(あくまでこれは類比的に見れば、という話ですが。)ちなみに、《「女は大地」かかる矜持のつまらなさ昼さくら湯はさやさやと澄み》(米川千嘉子)への返歌として《性別がふたつしかないつまらなさ七夕さやさやラムネを開ける》(大滝和子)と詠まれたのは、前者が「男」「女」の視点、後者が「n個の性」の視点、ということになるのでしょう。(短歌をこんなふうに“読み解いて”しまうと、なんだかつまらないですけど・・・)
なお、歌評に戻って言えば、僕は2番目の(冒頭の秋田さんのコメントの次の)コメントに書きました通り、認識論にかかわることを言っている歌としてこの歌を読むのが良いと思います。
斉藤さんの、きわめて懇切丁寧なコメントに恐縮し、了解しました。
私の理解では、それは「ポストコロニアル理論」や「カルチュラル・スタディーズ」などに関わる思考でしょうね。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA