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もうだれもいない川原にもも色のクロックスかたっぽころがっている
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この記事へのコメント
題がよかったから。<自画自この歌、既視感あるけれど、震災をうまく読み込んでいて、それを買いたいと思います。
私の心は震災、原発事故から離れられません。
他のひとはどうなのかな?
Posted by 青柳泉 at 2011年09月05日 12:57
この歌は震災をうまく読み込んでいて感心しました。
ちょっと似た歌ありとも思いました。
Posted by 青柳泉 at 2011年09月05日 13:02
私もこの歌に注目しました。
別に震災に限らずとも、夏の終わりの夕方の風景と読むことが出来ます。
クロックスはつっかけのようなサンダルのブランド名で、似た商品も安い値段で出ているようです。エスカレーターに引っかかる事故で話題になりましたが、変わらず人気の商品らしいです。それを持ってきたのが、現代的です。
もも色もいかにもありそうで効いているし、三句目からの促音の連続が小気味よく、ころがっている感じを出しています。
上句も「も」が四度出てきて、なかなか技巧的ですね。
Posted by 近藤かすみ at 2011年09月05日 14:41
一読したとき、私は本当に「もも色のクロックス」を持っているけど、誰にでも「クロックス」ってわかるのかなあ、と思っていました。
ただ、「もうだれもいない川原」が被災地だとはわかりませんでした。
今なら当然、震災を読んだ作品と理解されるものなのでしょうか?
Posted by 芝 典子 at 2011年09月10日 22:32
目のよくない僕は、一読「もも色のクロッカス」が、しかも「かたっぽころがっている」とはなんぞやと?マークを数十浮かべてしまいました。近藤さんの評を読んで自分の誤読に気づいた次第、芝さんのご指摘をそのまま演じてしまいました。
リズミカルで軽妙なこの歌からは、被災地というより「夏の終わりの夕方の風景」を詠んだ歌という印象を受けました。
「もうだれもいない川原」は「今はもう秋、誰もいない海」を想起させ、既視感を持たせますが、それも作者の技巧の内であるのかもしれません。
Posted by 村上 喬 at 2011年09月10日 23:15
私も,被災地の歌だとは読みませんでした。
最近はとかく震災にひきつけて歌の解釈がされがちですが,必ずしもそのように読む必要はないのではないかと思います。
「クロックス」「かたっぽ」「ころがって」という音と語彙の選択から,小さな子供が躓いて落としてしまったのかなという物語を想像させます。
もも色の景がぽつりと脳裏に残り,しんみりとした余韻のある歌です。
Posted by 春野りりん at 2011年09月13日 17:58
もうだれもいない川原にもも色のクロックスかたっぽころがっている
おそらく遊び疲れて眠る子を抱っこして帰る時に脱げ落ちたのでしょうね。
夏の終わりの物悲しい感じがよく出ている歌だと思いました。
僕も震災と関連付けては読みませんでした。例えば、題詠からは外れますが
「もも色のクロックス」が「25pのクロックス」だったら、
災害や事故を連想させて夏の終わりとはまた別の物悲しさを感じたり、
道路になぜか軍手が片方だけ落ちているという
情景と同様の不可思議さを感じる歌になったとは思います。
Posted by 伊波虎英 at 2011年09月15日 00:09
もうだれもいない川原にもも色のクロックスかたっぽころがっている
私は、震災の歌とはとくに思いませんでした。
前評の近藤かすみさんの「三句目からの促音の連続が小気味よく、
ころがっている感じを出しています」に共感しました。
上句の「も」音についても同感で、巧みな歌であると感じます。
「クロックス」については、一読は?でした。でも、調べてみると、「ああ、あれか」と
いかにも今、の日本をイメージさせる生活用品のひとつだと納得しました。
ここ数年よくみかけるカラフルでちょっと不思議な履物です。
類想の歌はあり、発想としては新しい感じはしません。
が、既視感をもたれるところを、「クロックス」の
強い存在感が救っていると思います。
「もうだれもいない川原」のたそがれにちかいくすんだ色の視界に、
鮮やかないかにも人工的な素材の「もも色のクロックス」をかたっぽ配したところなど、
色の想起のさせ方が、とても巧みであると思います。
Posted by 梶崎恭子 at 2011年09月15日 18:31
村上さんのコメントの最初の部分と同じでした。クロッカスについて梶崎さんは多分パソコンの検索で調べて分かったのだと思いますが辞書では花のクロッカスしか出てきません。パソコンを使わない人には分からない歌が今後増えるような気がしますがそれもやむを得ないのでしょうか。せめてカッコつき「クロッカス」にして欲しいと僕などは思ってしまうのですがー。
なお意味が分って読めば多くの方の意見のように僕もかなり良い歌だと思います。
Posted by 永井秀幸 at 2011年09月16日 17:04
この歌のいい点は、「クロッカス」という固有名詞を使ったところでしょう。しかし、一首のなかであまり生きてはいないようにおもわれます。
二人がややマイナス評価で「既視感」を挙げておられます。
「もうだれもいない(川原)」「かたっぽ」「ころがっている」などの言葉選びが、すこしずつ安易な結果、(意識的にそういう言葉選びをしているのでなければ)一首全体が既視感があり、平均的なレベルを超える歌にはなっていないのではないでしょうか。言葉でいえば、例えば「かたっぽは「ひとつ」、「ころがっている」は「あり」でも意味は通じるし、余った文字数分は、もっとこまかい具体を入れる余地がありそうです。
Posted by 山寺修象 at 2011年09月16日 19:13
永井さん,山寺さん,「クロッカス」ではなく「クロックス」ですよ。
Posted by 春野りりん at 2011年09月16日 20:35
「クロックス」は、一読よくわかる読者を限定すると思いますが、それでよいのだ、という必然性があったのかどうか、疑問が残りました。
「川原」は三途の川を想起させますし、「もも色」は水子供養の寺などで見かける風車のもも色を想起させます。水子だとすれば、「クロックス」は幻影でしょう。
「かたっぽ」「ころがっている」も不全感を表しています。
「もうだれもいない」のですからわれは孤独である。
そうした言葉の配置から、この歌は、亡き子をしのぶ歌、ひょっとすると自らの責であの世へゆかしめた子をしのぶ歌なのではないか。そういう読後感が残りました。
Posted by 斎藤 寛 at 2011年09月17日 20:48
春野さん、ありがとうございました。前々回(だったか)に続いてまたもとんでもない単純な一字の読み間違いをしてしまいました。花眼(老眼)の切なさと注意力散漫を反省するばかりです。作者の方にもお詫びいたします。
Posted by 永井秀幸 at 2011年09月19日 16:38
クロックスがとてもよく効いていると思いました。
現代的なアイテムを使っての成功例だと思います。
僕も震災は関係なく、子供がクロックスを落としていったというような歌だと読みました。
「もうだれもいない川原」という表現に、少し前に遊んでいる子供たちを見かけた、というような状況が読みとれます。
しかし伊波さんの言う「軍手」のように、なぜクロックスが落ちているのか分からない、誰が落としたのか分からない、という状況のほうが、クロックスがより引き立つかなとも思いました。
でもとても好きな歌です。
Posted by 木嶋章夫 at 2011年09月20日 23:16
もうだれもいない川原にもも色のクロックスかたっぽころがっている
クロックス。
知っている人は知ってるでしょうし。(履いている人ならなおさら)、知らない人は知らない。私も子どもたちが履かなければ知ることはなかったでしょう。皆様のコメントを見ると、「知っている」ということは絶対的なことだと改めて感じます。
さて、ここは「サンダル」や「下駄」「ぞうり」ではダメで、「クロックス」でなければいけない。その点、山寺さんのご意見とは異なります。
図らずもウチの娘もピンクのクロックスを持っていますが、「もも色のクロックス」というだけで、小さい女の子が履いていたのだろうと想像ができます。
また、「クロックス」は足の甲をくるむような構造で、通常のサンダルに比べ、色合いがはっきり見えます。要するに、目立ちます。
それらを鑑みると、無人の川原にクロックスがころがっているだけで一首が成立するように思います。ただ、下句のもたつき感は工夫の余地があるように感じました。
Posted by 村田馨 at 2011年09月21日 15:39
皆さまコメントをありがとうございまいた。
これは原発事故でも水子供養でもなく、単なる写生です。
わが家近くの渓流は9月に入るとぱたっと人影がなくなり、夕方の川原にサンダルが片方だけ落ちていただけのことです。
「クロックス」夏の日、川原で遊んでいた人たちはお約束のようにこれを履いていました。「クロックス」って響きが良いじゃないですか。私も最近知ったばかりなので、一首作りたくなりました。でも旧かなには合わないので、敢えて新かなの軽い(安易な?)言葉を選びながら、今そこにあるものの状態をクロックスみたいに軽く描いてみたかったのです。本当は水色だったんですけれど、もも色の方が絵になるので・・・
しかし、いろいろなご批評を拝見しながら、旧かなで改作の余地もあるのかと、考えてみたいと思いました。
Posted by 庭野 摩里 at 2011年09月21日 22:26
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私の心は震災、原発事故から離れられません。
他のひとはどうなのかな?
ちょっと似た歌ありとも思いました。
別に震災に限らずとも、夏の終わりの夕方の風景と読むことが出来ます。
クロックスはつっかけのようなサンダルのブランド名で、似た商品も安い値段で出ているようです。エスカレーターに引っかかる事故で話題になりましたが、変わらず人気の商品らしいです。それを持ってきたのが、現代的です。
もも色もいかにもありそうで効いているし、三句目からの促音の連続が小気味よく、ころがっている感じを出しています。
上句も「も」が四度出てきて、なかなか技巧的ですね。
ただ、「もうだれもいない川原」が被災地だとはわかりませんでした。
今なら当然、震災を読んだ作品と理解されるものなのでしょうか?
リズミカルで軽妙なこの歌からは、被災地というより「夏の終わりの夕方の風景」を詠んだ歌という印象を受けました。
「もうだれもいない川原」は「今はもう秋、誰もいない海」を想起させ、既視感を持たせますが、それも作者の技巧の内であるのかもしれません。
最近はとかく震災にひきつけて歌の解釈がされがちですが,必ずしもそのように読む必要はないのではないかと思います。
「クロックス」「かたっぽ」「ころがって」という音と語彙の選択から,小さな子供が躓いて落としてしまったのかなという物語を想像させます。
もも色の景がぽつりと脳裏に残り,しんみりとした余韻のある歌です。
おそらく遊び疲れて眠る子を抱っこして帰る時に脱げ落ちたのでしょうね。
夏の終わりの物悲しい感じがよく出ている歌だと思いました。
僕も震災と関連付けては読みませんでした。例えば、題詠からは外れますが
「もも色のクロックス」が「25pのクロックス」だったら、
災害や事故を連想させて夏の終わりとはまた別の物悲しさを感じたり、
道路になぜか軍手が片方だけ落ちているという
情景と同様の不可思議さを感じる歌になったとは思います。
私は、震災の歌とはとくに思いませんでした。
前評の近藤かすみさんの「三句目からの促音の連続が小気味よく、
ころがっている感じを出しています」に共感しました。
上句の「も」音についても同感で、巧みな歌であると感じます。
「クロックス」については、一読は?でした。でも、調べてみると、「ああ、あれか」と
いかにも今、の日本をイメージさせる生活用品のひとつだと納得しました。
ここ数年よくみかけるカラフルでちょっと不思議な履物です。
類想の歌はあり、発想としては新しい感じはしません。
が、既視感をもたれるところを、「クロックス」の
強い存在感が救っていると思います。
「もうだれもいない川原」のたそがれにちかいくすんだ色の視界に、
鮮やかないかにも人工的な素材の「もも色のクロックス」をかたっぽ配したところなど、
色の想起のさせ方が、とても巧みであると思います。
なお意味が分って読めば多くの方の意見のように僕もかなり良い歌だと思います。
二人がややマイナス評価で「既視感」を挙げておられます。
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「かたっぽ」「ころがっている」も不全感を表しています。
「もうだれもいない」のですからわれは孤独である。
そうした言葉の配置から、この歌は、亡き子をしのぶ歌、ひょっとすると自らの責であの世へゆかしめた子をしのぶ歌なのではないか。そういう読後感が残りました。
現代的なアイテムを使っての成功例だと思います。
僕も震災は関係なく、子供がクロックスを落としていったというような歌だと読みました。
「もうだれもいない川原」という表現に、少し前に遊んでいる子供たちを見かけた、というような状況が読みとれます。
しかし伊波さんの言う「軍手」のように、なぜクロックスが落ちているのか分からない、誰が落としたのか分からない、という状況のほうが、クロックスがより引き立つかなとも思いました。
でもとても好きな歌です。
クロックス。
知っている人は知ってるでしょうし。(履いている人ならなおさら)、知らない人は知らない。私も子どもたちが履かなければ知ることはなかったでしょう。皆様のコメントを見ると、「知っている」ということは絶対的なことだと改めて感じます。
さて、ここは「サンダル」や「下駄」「ぞうり」ではダメで、「クロックス」でなければいけない。その点、山寺さんのご意見とは異なります。
図らずもウチの娘もピンクのクロックスを持っていますが、「もも色のクロックス」というだけで、小さい女の子が履いていたのだろうと想像ができます。
また、「クロックス」は足の甲をくるむような構造で、通常のサンダルに比べ、色合いがはっきり見えます。要するに、目立ちます。
それらを鑑みると、無人の川原にクロックスがころがっているだけで一首が成立するように思います。ただ、下句のもたつき感は工夫の余地があるように感じました。
これは原発事故でも水子供養でもなく、単なる写生です。
わが家近くの渓流は9月に入るとぱたっと人影がなくなり、夕方の川原にサンダルが片方だけ落ちていただけのことです。
「クロックス」夏の日、川原で遊んでいた人たちはお約束のようにこれを履いていました。「クロックス」って響きが良いじゃないですか。私も最近知ったばかりなので、一首作りたくなりました。でも旧かなには合わないので、敢えて新かなの軽い(安易な?)言葉を選びながら、今そこにあるものの状態をクロックスみたいに軽く描いてみたかったのです。本当は水色だったんですけれど、もも色の方が絵になるので・・・
しかし、いろいろなご批評を拝見しながら、旧かなで改作の余地もあるのかと、考えてみたいと思いました。