この記事へのコメント
夏の終わりの倦怠感のようなものを感じさせる歌だと思います。
三句目からあと、自転車の具体もよいと思いました。

ただ「人のやうに打ち捨てられて」となると、自転車と人を比べて、自転車の方が優位にあるように読めます。やはり人は、自転車よりも大事なものでしょう。打ち捨てられるものとして、自転車より価値の低いものを持ってくるべきではないでしょうか。それでは歌として常套的になってしまうのでしょうか。私にはわかりません。
Posted by 近藤かすみ at 2011年09月06日 20:33
<人はうち捨てられるもの>という前提がこの歌を支えているのではないですか。そこに作者の批判精神が込められていると思います。本当は、人はそんなものであってはならないのですけどね、自転車より価値を下げた表現に、かえってインパクトのある魅力を感じます。<ふつう>をひっくり返した表現が詩の精神だと思いますが。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年09月07日 06:24
「打ち捨てられて」「埋もれて」「蔓に歪(ひづ)む」という押しの強さには好みが分かれるかもしれませんが,「人のやうに」という驚くべき喩によって,一層インパクトのある一首となっています。

自転車であれば,そのようなかわいそうな自転車も少なからずあるだろうと思われるのですが,人についてはどうなのか,比喩的にそのようなことがないと言い切れるのかと,間接的に「人」を考えさせるように詠っていて巧みだと思いました。
Posted by 春野りりん at 2011年09月07日 08:37
私は人も自転車も「用がなくなれば打ち捨てられるもの」と同等に読みました。
捨てられた自転車だけでも哀しいですが、それが夏草が茂ってきて捨てられた存在さえ忘れられようとしている。
作者はその風景を見てこの現代の世情の「ああ人も同じだ」と感じたのではないでしょうか。
表現としての擬人法ではありませんが、自転車に人と同じ悲しみを見、感情移入している歌だと思います。
私はこの歌の感覚に同感します。
Posted by 海野雪 at 2011年09月07日 09:07
この歌にとても魅力を感じたのですが、どう読み解くのか、説明がつきませんでした。お三方のコメントで「そういうことですね」とそれぞれに納得がいきました。ネット歌会で詠草一覧を見ても初めは好きか嫌いかくらいしかわからなかった歌が皆さんのコメントを読むうちにいろんな歌が生き生きと立ち上がってきます。ネット歌会の醍醐味です。
Posted by さとう ひろこ at 2011年09月07日 11:07
私も「そういうことですね」とまでは、おぼろげに理解できました。
しかし、根っこのところで納得できません。
私には死ぬまでこのような歌は作れないし、短歌、詩歌に向かないタイプの人間かもしれません。この理屈好きの性格でもできる歌があるかを模索するしかありません。
Posted by 近藤かすみ at 2011年09月07日 14:43
一読し、まず「青草に埋もれて蔓に歪(ひづ)む自転車」の部分に惹かれました。
「自転車」を「人」に喩えている部分には違和感を持ちましたが、全評者のコメントから現代社会への「作者の批判精神」との解釈に読みが広がりました。
一体いつから「自転車」は、使い捨ての消耗品に成り下がったのでしょう。
Posted by 村上 喬 at 2011年09月10日 11:16
人のやうに打ち捨てられて青草に埋もれて蔓に歪(ひづ)む自転車

「自転車のように打ち捨てられた人」という比喩であればわかるのですが、
放置自転車を「人のやうに打ち捨てられて」と詠むのは、
読み手を納得させる的を射た比喩だとは言えません。
比喩には、意外性はもちろん必要ですが、読み手を納得させる説得力が何よりも必要です。
「青草に埋もれて蔓に歪(ひづ)む自転車」というのが非常に具体的な描写だけに残念に思いました。
 
Posted by 伊波虎英 at 2011年09月14日 00:48
 伊波さんのコメントは、充分わかります。(一般論としても)僕は強くは反対できないのですが、この比喩は微妙ですが、ぎりぎりセーフとおもいたいです。あくまで例外的に。
 吉岡生夫さんの歌に、茂吉の歌を反対に見立てて、襤褸切れが「襤褸切れのように平たくなった猫」のように見えた、という歌を作っておられるのを思い出ししました。
 自転車は車やバイクとは違い100パーセント人力で走る(今は電動機つきもありますが)ので、使い込まれたものであれば、かなり人間くささ・生活臭も感じられるものもあるので、この比喩は、ぎりぎりセーフと考えたいです。

 むしろ、下句がやや慣用句的な・あるいは類型的な表現に感じられ、一首が予定調和っぽくなっているのが、すこし気になります。
 「打ち」はない方がすこしいいかもしれません。
Posted by 山寺修象 at 2011年09月14日 09:56
この歌の「人のようにうち捨てられて」の喩が受け入れられる人と、受け入れられない人に二分されているように感じました。
歌にはその人の<認識>がでるものですから、あれこれ言うことはできないのたですが、なぜ受けいれられないか、ひどく疑問には思うのです。
<喩>として成立しないと考えているのか、あるいは心情として納得しがたいと思っていられるのか。どうなんでしょうね。
ところで<捨てる>と<うち捨てる>とは微妙に意味が違います。
<捨てる>は、文字通り能動的に、積極的に<捨てる>の意味になりますが、<うち捨てる>になると、これは「放置する」「見捨てておく」などの意味が入ります。
放置されて見捨てられた自転車は、うち捨てられた人間の喩として意味が深いと思います。捨てる、という能動的なことはできないけれども、ついつい忙しさにかまけて見捨てて放ってしまうということはありうるでしょう?

極端な例を言えば、老親を捨てるというのは,楢山節考ではないですが、相当の覚悟がいることですが、仕事の忙しさにかまけて老親をついつい放っておくということはあるでしょう。親に限らず、家族や友人を放置しちゃう、それを気に病んでいる様が蔓に絡み取られた自転車の形をとって1形象化されているように感じられます。自転車の喩には人間のそのような弱さや姑息さが表れているように思えるのです。
それに、自分だって、友人や家族から<うち捨てられて>と感じることもあるでしょうし、社会から見捨てられていると感じることもある。この自転車の捨てられた姿ははそんな自分の自意識そのものかもしれないです。
この歌、上手いのだか下手なのだか分かりませんが(ごめんなさい),自転車の喩に込められた複雑な思いをなんとか丁寧に誠実に表現しようとするところがあって、心に残りました。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年09月21日 20:24
田宮さんの解説で言い尽くされた気がしますが、この歌が生まれたきっかけは、一瞬「人かな?」と青草に埋もれている自転車にドキッとさせられたことではないのでしょうか?
人のように見えたことがきっかけで、人と自転車の対比がなされ、興味深い社会性のある歌が生まれたのではないでしょうか。
Posted by さとう ひろこ at 2011年09月23日 10:49
人のやうに打ち捨てられて青草に埋もれて蔓に歪(ひづ)む自転車

「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」というジャーナリズムの名言を思い出しました。
「自転車のように捨てられた人」では(インパクトのある)比喩にはならないが、「人のように捨てられた自転車」なら衝撃でしょう。逆転の発想ここにあり、です。
私はこの比喩を受け入れられます。成功していると思います。
ただ、結句自転車にすべての修飾がかかる構造で支え切れているかどうか。つまり、もっとはやい段階で「自転車」を読者に見せる必要があるのではないか、という気がします。
Posted by 村田馨 at 2011年09月23日 17:54

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