2011年09月01日

第7回ネット歌会詠草/3

銀幕に向日葵の黄はゆれやまず廃兵ならぬわれの退屈
posted by 短歌人会 at 00:32| Comment(25) | TrackBack(0) | 第7回歌会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
映画「ひまわり」のあの映像は強烈でした。廃兵はあの黄色の暗闇に吸われてしまったのでしょうか。でもこの歌の詠み手は「廃兵ならぬ」なのですね。ひまわりの黄の暗闇が幻像であることを知ってしまっている者のシニカルさが不思議に切なく印象に残りました。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年09月05日 07:57
映画『ひまわり』は、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演した反戦映画の傑作。戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を描いた。向日葵畑が何度か登場する。地平線にまで広がるこの向日葵畑がもの悲しさを演
出する。しかし作者にとっては、この演出は、退屈な場面という。41年前の1970年の作品でもあり、共感できなかったのであろう。深読みは避けるべきだが、揺れやまぬ向日葵を見て感極まり、とめどなく流れる涙を隠すために「退屈」と詠んだと思いたい。
Posted by 秋田興一郎 at 2011年09月05日 10:07
ある程度から上の年代に者には、映画『ひまわり』の印象は強烈です。お若い方でも、映画を好きな方はもちろんご存知でしょうけれど。

>銀幕に向日葵の黄はゆれやまず廃兵ならぬわれの退屈

平成の現代に生きる作者、あるいは作中主体は、もちろん「廃兵」つまり負傷あるいは疾病により退役した軍人でない訳で、今を生きるおおかたの者と同じく、さしてドラマティックでもなく、しごく普通に日々を送ってゐて、それを「退屈」と表現したのでしょうか。
人にはそれぞれのドラマがあって生きているのですが、それを「退屈」と体言止めにした辺りに、ややペシミスティックでありつつも、ダンディズムみたいなものも感じられて、これは男の歌だなぁ…。

一読、韻律に格調が感じられ、作者としての文体にひかれました。
Posted by 弘井文子 at 2011年09月05日 13:56
確かにかっこいい歌ですね。
映画のストーリーからの流れであるものの、自分を「廃兵」であるかのように装って「退屈」で現代を感じさせます。

ただ、この一首の中に「銀幕」「黄」と色が二色でてくるのは、どうでしょう?
銀と黄は対比がはっきりした組み合わせです。
一首には一色というのが原則ということも聞いたことがあります。
皆様のご意見を聞きたいところです。
Posted by 近藤かすみ at 2011年09月05日 18:36
近藤さんが「銀幕」と「黄」についてお書きです。題のルールについてはお書きの通りだと思います。

ところで、この作者はほんとうに「銀幕」で、つまり映画館で「ひまわり」を観たのでしょうか?
いかにも経験的な読みですが、私は映画館で「ひまわり」を観ました。そのとき、マストロヤンニが「廃兵」であるということなど思わず、ソフィア・ローレンの乳房ばかりを印象していました。
この時点での「退屈」というのはどうだろう?

むしろ、この「ひまわり」の退屈→ほろ苦さは、ロバート・アルトマンのハリウッド映画「プレタ・ポルテ」に再現されているように思います。いかがでしょう。
Posted by 西王 燦 at 2011年09月08日 20:14
内容的には前評者のおっしゃる通りでしょう。
中年世代以上には、あの地平線にまで及ぶ広大な向日葵畑は鮮烈に記憶されています。

世界が認める20世紀最大の色男マルチェロ・マストロヤンニをめぐって、柄にもない貞淑なイタリア人妻を演じるソフィア・ローレンと、清楚な「ロシア妻」のリュドミラ・サベーリエワという、当時の世界有数の二大女優が対決する、一歩間違えばコメディになるような設定で、典型的な三角関係を描いた作品です。ドラマツルギーとしては、世界文学の王道に則って、むしろ常套的。

・・・が、「ビルマの竪琴」や「ゼロの焦点」などのように第二次世界大戦の歴史を絡ませることによって、終始重厚かつ悲劇的なトーンで押し切ることに成功した名作です。

男であれば、ある意味で内心かくありたいと思う人は少なくないでしょう。

ほぼ作者であると解される作中主体「われ」は、戦後日本の平和すぎるほど平和な状況に生まれ育って半生を送ってきて、そんなドラマは何ひとつこの身には起こらなかったよと自嘲し、退屈している。
その脈絡は、感情移入しやすいと思います。

・・・ところで、私は囲碁をいささか嗜みますが、段級の位階は峻厳であり、実力差は一目瞭然です。
この歌は、一読、あまりにもレベルが違いすぎる完璧な作品で、一分の隙もなく、取り付く島がない。

歌会は互いの作品の適当な瑕疵などを突っついて、「いじりいじられ」(お笑い業界用語)を楽しむ場でありましょうから、作者の方は、もそっと実験的・冒険的な「半失敗作」めいたものを提出した方が、親しみを持たれるのではないでしょうか。

・・・なんつって^^;
Posted by 坂本野原 at 2011年09月09日 11:44
 近藤さんの「一首一色説」については、一首の中で(比重的に)色が真っ二つに分かれてはだめだということでしょう。そういう訳で基本的には一色ということになるのだとおもいます。ことがらについても、比重が同じで二つに分かれるのは、よくないのと同様なのだとおもいます。

 銀幕という出だしからして、すこしクサイ(作者の意識が出すぎている)感じがします。
 「ゆれやまず」はどちらかといえば、ゆれない方がいいのでは。
 「廃兵ならぬわれの退屈」はちょっと意識過剰な感じがします。
 「われの退屈」はいわないで、言外に感じさせるようにした方が、はるかにいい作品になる可能性があるとおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2011年09月10日 10:18
いろいろなご意見楽しく読ませていただきました。 銀幕はもちろんスクリーンでしょう。なぜ銀幕というのか、考えたこともなかったのですが
ここは銀幕というのがフサワシイデショウ。スクリーンじゃ散文的すぎますから。
色が2つでてはいけないという指摘は勉強になりました。でもこの場合は山寺さんのいうように許されるのではないでしょうか?
余談ですがマストロヤンニを色男と感じたことは
ありません。<甘い生活>の印象が強烈だったせいか…私は世紀の色男はアランドロンだと思います。よけいな話をごめんなさい。
Posted by 青柳泉 at 2011年09月10日 12:46
またまた、おからかいを。
・・・別件ですが、せっかく私の平謝りで一件落着したところで、そういう挑発はやめてくれませんか(笑)

マルチェロ・マストロヤンニが「20世紀を代表する、世界に冠たる色男」であることは、私個人の意見ではなく、世界の映画の目利きの客観的な評価であり、間違いない事実です。
「マストロヤンニ 色男」などのキーワードで検索すれば、厖大な典拠が出てきます。

「甘い生活 ラ・ドルチェ・ヴィータ」をはじめとするフェデリコ・フェリーニ監督作品は、私が最も愛する洋画の一群ですが、この中のマルチェロも十分に色男だったと思います。

虚飾に満ちた俗世に穢れきった敗残兵のような彼と、その隠喩(メタファー)である腐った魚、それを見つめる天使のような少女のラストシーンは、北野武「HANA−BI」に引用されました。

なお、アラン・ドロンは、・・・・・またまた物議を醸しそうなので、これ以上の発言は慎みたいと存じます^^;
Posted by 坂本野原 at 2011年09月10日 15:04
コメントの集中する作品ですが、もうすこし。

坂本野原さんがお書きの

男であれば、ある意味で内心かくありたいと思う人は少なくないでしょう。

これ、まったく同感です。
映画「ひまわり」におけるマストロヤンニは、一種の「浦島太郎」体験をするわけです。

それにひきかえ俺の人生は退屈だなあ、ということでありましょうが、先に書きました『プレタポルテ』では、マストロヤンニ自身が、人生なんて誰だって退屈なものなんだよ、と、しみじみと語りかけています。
ラストシーン近く、ソフィア・ローレンの夫(フランスのファッション業界の大御所)の葬列を、公園のベンチで眠りこけて見送る場面は、なんともほろ苦くて格好いい。

もし、『プレタポルテ』を未見のかたは、ぜひとも。映画「ひまわり」の後日談というかパロディというか、私にとっては20世紀後半の最高の映画です。

なお、青柳さんがアラン・ドロンが世紀の「色男」とお書きのところ、色男という言葉にも幅があるのだと、いろいろ思います。たしかに美形だが、彼は生涯チンピラの印象で、マストロヤンニとは格が違うかもしれませんね。ブリジッド・バルドーが、実際につきあってみたアラン・ドロンへの酷評と、ソフィア・ローレンが実際につきあってみたマストロヤンニへの最大級の好評との間に、私たちの退屈な人生はあるのでしょう。
Posted by 西王 燦 at 2011年09月10日 19:25
色男といえば色男ですが、アラン・ドロンとマルチェロ・マストロヤンニの間には、西王さんがお書きの通りの深い懸隔があると思います。

青柳さん、いわゆる「色男」を、色男ならぬ同性は、きわめて冷静に冷ややかに観察しております。

・・・すいません、言いすぎました^^;
Posted by 坂本野原 at 2011年09月11日 09:44
一首に一色、については、そう言う原則があることをお聞きすると、なるほど、と思いますけれど、原則は原則である訳で、原則をを超えて、より佳い詩として詠う、そこに歌の力や、それぞれの歌人の文体があるのでは、と思ったりします。
Posted by 弘井文子 at 2011年09月11日 13:36
向日葵・廃兵・退屈という言葉の使い方が
光景を刻み付けるのに効果的に使われていて
一つの世界が残像として残る歌だと思いました。

「原則」については弘井さんとまったく同意見です。
「自己規制の放送禁止用語」と一緒で、
この場ではそのようなルールは一切述べられていないわけですから、
今回の歌会に適用すべきではないと思います。
それ以前に短歌ってものはそうなんですよ、と言われれば
無知なだけなのかもしれませんが、
季語を二つ入れても短歌だったら完全なルール違反ではない
(と私は思っています)のと同じように、
歌として力があるか、ということだと思います。
また、今回の「銀幕」に関しては、「銀色」じゃないですよね。どう考えても。

あと、山寺さんがお書きの
>「われの退屈」はいわないで、言外に感じさせるようにした方が、
>はるかにいい作品になる可能性があるとおもいます。

に関してですが、
(山寺さんを特に名指しするものではありません)
この手の批評が歌会であまりに多いので
いつも悩ましい問題として思うことがありまして、
【「われの退屈」はいわないで、言外に】
というのは、「われの退屈」がすでにそこに出現しているからこそ
初めて「われの退屈を別の言葉で」と批評者は言えるわけでありまして、
別の言葉の方がいい歌になる、
というのはとてもよく理解できるのですが、
そう簡単に口にしていい問題なのか、
といつもいつも思うということです。

もちろん批評する権利もされる権利もあるわけですけれど、
対案を出すなり、こういうニュアンスがいいと思うというなり、
痛み分けというほどのものではありませんが、
こちら側にも言葉を替えろというだけの矜持といいますか、責任といいますか。
そういうものが伴っていてもいいのではないかと思っています。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2011年09月11日 23:07
勺さんの言う通りなんですよね。批評というのは本とに難しい。でも、自分の歌の欠点は全然見えないけれども、人の歌の欠点なら物凄くよく見える。自分ならこうは詠まないな、とはおもうのですけど、自分でもそうは詠めないんですね。
ちなみに銀幕というのは、昔、映画の初期の頃は本当に銀色だったそうです。映像を映すのに、スクリーンに銀色の化学塗料を塗ったのだとか。銀幕というと大時代的な古風な感じがするのはその為でしょうか。その語感の<気取り>のようなものがこの歌には生きているのではないでしょうか。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年09月12日 07:07
 「われの退屈」についての僕のコメントについてのコメントがありますので、再コメントします。それぞれがどこまで切り込んだコメントをするかは、それぞれの歌人にまかされているので、「私はそこまでしか言わない批評では物足りない」とおもった人はその先を言えばいいのであって、そこまでしか言わない批評に対して、つべこべ言うのは無意味だとおもいます。あるいは、反対の意見があれば、反対の方向での批評を展開してもいいとおもいます。
 もちろん、ある批評が、歌会でよく使われる言い方でしかなくても、批評者はその歌に即して考えて(も)そうだと感じられるからこそ、そういう発言をするのだとおもいます。
  
 (この歌についてもう少しコメントします。)
 「われの退屈」を直接表現しているのは、「廃兵ならぬ」だけで、上句は塚本さん的に対比させるための部分であり、「割れの退屈」についての具体ではない、という形の作品であるとおもわれます。
 僕には、「われの退屈」が「われのかなしみ」や「われの楽しみ」と使うような感じにおもわれます。

 有り方論ではなく、反論は、(あなたの批評は具体的変更例がないから不満で)自分なら、こう具体的に批評する、というものを示してもらえれば、ばそれでいいのだとおもいます。。
Posted by 山寺修象 at 2011年09月12日 08:42
余計なコメントかもしれませんが、気になるので。
「われの退屈」のかわりにもっといい表現を、という提案をしたのなら、「では、代わりに何があるうるか」は当然問われるべきことで、発言者はそれを引き受けなければいけないと思う。発言者の責任として。
ところで゜「退屈」の語は「かなしみ」や「たのしみ」とは次元の違うところでこの歌では用いられていて、同じに扱うことはできないと思います。この「退屈」の語は、歌を予定調和からずらして、あるいは反転させたところに螺子のように打ち込んだ言葉で、この語をはずすと歌の構造が崩れてしまう。この歌のキーワードとして生きている言葉なので、全体を覆うトーンとしての「かなしみ」とは同列には扱えないのでは。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年09月12日 10:22
この歌の評からははずれますが一般論の部分に関してだけひとこと。
「この歌の〜〜という表現はどうかなあ?」と僕も歌会(顔をつき合わせた歌会およびネット歌会)で言うことがあります。その時に、「そのように言う以上は代案を出せ」とかいうのは僕は受け容れません。コメントは「どうかなあ?」までで十分だと思います。もちろん良き代案と思われるようなものがあれば言ってもいいと思いますけれども、どちらかというとそれは「余計なお世話」ではないか、という気がします。
「どうかなあ?」と言われた作者の側が、そうだなあ、と思えば、しかるべき代案を考えればよいし、「どうかなあ? と言われたってやはりここはこの表現でしょ!」と思えば「どうかなあ?」は却下! とすればよい。それだけのことではないかな?
歌会で、“そのように言う以上はもっと何か言え”、みたいなことは一切要らない、と僕は思っています。
Posted by 斎藤 寛 at 2011年09月12日 20:22
どうもうまく伝えられなかったようですので、
少しだけ補足します。

「代案をだせ」云々が言いたかったのでは全くありません。

【「われの退屈」はいわないで、言外にわれの退屈を感じせしめよ】
と鑑賞者が言うとき、
鑑賞者は眼前に「われの退屈」を提出されているので、
この歌が「われの退屈」を言いたいことを知ってしまっている。
だからこそ「われの退屈」を別の言葉で、と言える。
その後改作が出されたとき、
すでに「われの退屈」が提出された後なので、
「ああこれがわれの退屈の代案だ」と思うことも、できる。
しかし最初から代案(?というのもへんですが)が出されたとき、
「われの退屈」の存在はどうなるのか。
みたいな話だったのですが…
こういうことにこだわるのは、
頭でっかちの、具体がない、しょうもないことかもしれません。
それこそ、最初から言外にそれが表出されていれば
みんなそこに引っかからないで、
いい歌として鑑賞できるわけですからね。

それでも
「●●という言葉を使わずに●●の意味を出せたらいいのではないですか」という批評は、
けっこう安易にあちこちで使われているような気がして、
「父母未生以前本来の面目は何か」
というようなことまで言い出したら、
禅の公案みたいになってしまいますが、
一つの歌への批評をするときに、
すでにそれはその歌に依っている、
ということへの認識やいかに、
と一石を投じてみたかったまでです。
自戒の念も込めて。

失礼しました。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2011年09月12日 21:39
 難しく考えないで、直接表現した方がいいことと直接には表現しないで感じさせた方がいいこととの境界についての見極め、ということだとおもうのですが。
Posted by 山寺修象 at 2011年09月13日 18:42
西王です。勺さんがお書きの、

--------------------
一つの歌への批評をするときに、
すでにそれはその歌に依っている、
ということへの認識やいかに、
--------------------
これが、あまりに素敵な言い方なので、のこのこと出てきました。

「すでにそれはその歌に依っている」ということ。これが、気障な言い方をすれば「構造主義的」な読み方です。私が数十年に亙って短歌人誌に書き散らしてきたヘンな文章のすべては、「すでにそれはその歌に依っている」ということを言おうとしてきたのだと思います。経験的読者とかモデル読者とか、死語になりつつあるような語彙を使って(笑)。

山寺さんが「難しく考えないで」と、作者のテクニックのことを述べようとすることと、勺さんがお書きで、私が感服した「構造主義的読み」とは、まったく別の話をしているように私には思えます。
Posted by 西王 燦 at 2011年09月13日 19:34
西王さん、ありがとうございます。
そういうことであります、と思います(笑)。

斎藤さん、
「この歌の〜〜という表現はどうかなあ?」
で止めてしまうのと、
「この歌の〜〜という表現はどうかなあ?〜〜と言わず
にそれを感じさせることができたらその方がいいでしょう」
まで言ってしまうのとは、
ニュアンスが違うと思うんですね。わたしは。

さらに突き詰めて「余計なお世話」を考えると、
「どうかなあ?」だって十二分に余計なお世話なわけです(笑)。
そんなこと言いだしたら批評はすべて余計なお世話になりまするよ。
あ、でもそれを責めているわけでは毛頭ありません。
批評はおせっかいを周知として批評しているのですから、
それはそれでいいんです。と思います。

で、ここは余計なお世話の話でもなくて、
作歌のテクニックの話でもなくて、
有り方論でも微妙になくて、
そもそも、その、身も蓋もなく言ってしまえばおせっかいであるところの批評や、
その製造元となる歌そのものに触れるお話が、
みなさんのお話の中で有機的に展開できれば、
と思ってぶつけてみたのですが…。
(私自身が、気になりつつ、よくわからず謎な部分があるのでみなさんにお聞きしたくて)

でも、ここではあまりそういう議論は好まれないようですね。

西王さんが論理的に解釈してくださったことを元に、
時どきはじわじわ考えたいと思います。

歌から離れてしまってすみません。
でも、私は「われの退屈」はこの歌の中から闇に葬りたくない言葉で、
それを救済したいという思いから発したという経緯もありますので、
お許しください。
Posted by 勺 禰子(しゃく・ねこ) at 2011年09月20日 03:29
「一つの歌への批評をするときに、すでにそれはその歌に依っている」
という勺禰子さんの投げかけに、はっとしました。
以後、読解をするときに、この問いを自分にしてみるような気がします。
意識化させて頂いて、よかったと思います。

銀幕に向日葵の黄はゆれやまず廃兵ならぬわれの退屈

気になったのは、三句「ゆれやまず」と四句「廃兵ならぬ」の、否定表現の重複です。
ストレートに言えるのに、そうせずに否定することで、歌に屈折を作るわけです。
一般的には、それを繰り返すのは、調べを停滞させかねないので、
避けるのが常道ではないのかと思うのです。が、この歌は敢えてそこを繰り返して、
一回目は終止形、二回目は連体形として、波のようなリズムをつけているように思えます。
ここを面白く感じました。

「われの退屈」は、これはいったい何が言いたいのだろうと、何度も反芻させられる語彙です。
よく言われることですが、映画館を出てくるときに、人はその映画の主人公になっている・・・
この歌の「われ」は、そうではない・・・
映画の感動的なエンディングで、既に自身がこの映画の主人公ではないのだと、認識するのです。
この作中主体の「退屈」とは、いったい何なのだろう・・・
これを考えることが、それ自体がとても魅力的です。

Posted by 梶崎恭子 at 2011年09月20日 16:06
改めて、歌そのものを読みなおしてみました。

銀幕に映される「ドラマ」と、大したドラマのない作者の人生を、作者は何気なく比較しているのでしょう。平穏ではあるけれど、何か物足りないようなものを感じているように思います。
映画のように徴兵されて、廃兵になることは、もうないけれど、残された人生にそんなに大きなドラマがありそうな気もしない。

若い時は、感情移入できた映画にも、それほどの思い入れを持てなくなってしまった。
それは人生の夕暮れに入ってしまったから。

作者の年齢などはわかりませんが、「われの退屈」がたくさんのことを語っているように思えました。
Posted by 近藤かすみ at 2011年09月20日 17:32
勺禰子さんが何を言われたいのか、どうもよくわからないままでした。
あるテキストに対して批評を述べるということ自体が、そのテキストに依存しているのは当然のことで、みんな、ある意味では、失礼を承知で好き勝手を言っているのがこういう歌会の場なのではないかと思います。(もとより、そうではあっても、しかるべき礼節というのはあると思いますから、歌評から外れた頭ごなしの論難のようなことを言うのはやめてほしいと思いますが。)
資本主義に対する批判は資本主義に依存しています。短歌に対する批判は短歌に依存しています。気になるから批判するのであって、気になるということ自体が何ほどかその対象に依存しているということでもあるでしょう。
で、そのようなメタの議論(この場で展開されている議論は何なのだ? と問い返すような議論)を、あえて歌会の場でする必要はないんじゃないかな? と僕は思いました。(と言いながらこのコメントもその水位で書いているんですけど・・・。)禰子さんが、この歌の「われの退屈」は葬りたくない、と思われたのだとしたら、端的にそのことだけを言われれば、それで良かったのではないでしょうか。
ただ、こういうやりとりは、歌会でのやりとりって何だろう? ということをみんなが考えるきっかけにはなると思うので、やはり有意義なことだったのではないか、とも思います。
Posted by 斎藤 寛 at 2011年09月20日 21:09
 僕は勺さんの最初のコメントを読んで、書かれた者として、はっきりとは断言できませんが、(短歌の批評の場なので、たぶん短歌についての何かなのでしょうが)何かがズレテいるな、とおもってしまうところがありました。
 相手に対して、特に失礼な書き方でなければ、ある人の批評の内容あるいは批評の仕方について不満があれば、それに反対するベクトルでの圧倒的に良い(と自分ではおもえる)自分の批評を展開することしか返せることはないとおもいます。すくなくとも僕は、そうするようにしています。そうでなければ、批評はほぼ無意味なものになるのだとおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2011年09月21日 00:35

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