この記事へのコメント
イメージが豊かで、一つの世界を表現しようという工夫のある歌だと思いました。
上の句が、和歌的なレトリックで作られているのですが、これが虚構の想念の世界なのか、実体験の狩の現場に立っているのか、それによって読みが変わるのではないかと思うのです。
短歌は実体験に依る必要はゆめゆめない、と思います。でも、ここは、嘘でもいいから、主体は<今>狩の現場にいて、「狩のカンタータ」を想起していると読みたいところです。上の句、もう少し、リアルに詠む方が臨場感が生まれていいだろうと思うのです。「狩のカンタータ」は<狩の喜び>を歌い上げた、バッハの、よく知られた名曲ですが、狩の現場に立って、でもそれは殺戮の世界でしょう?、その殺戮の世界と、狩の喜びを歌い上げるカンタータの世界とのギャップが、今作者の心にあるわけで、なかなか複雑な心境を歌にしているわけです。
上の句、和歌的レトリックではない方がいいかもしれない。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年11月14日 07:48
「鹿を撃つ時雨の茅野に」は、現在目にしている光景(「鹿を撃つ」というのは音が聞こえているだけかも知れませんし、例えばテレビの映像として見ているのかも知れません。「鹿を撃つ」のは、害獣対策かと思われます)で、その光景を見て、作中主体は「昨夜(きそ)聴きし『狩のカンタータ』」を思い浮かべてしまった。食害は、農林業にとっては深刻な問題ですが、鹿を殺すのは痛ましく、部外者としては何とか殺さずに済めばとも思う。そういう場面で『楽しき狩こそわが悦び』(『狩のカンタータ』)を想起してしまったのは、何とも「想ふも愚か」なことであるよ、と作中主体は忸怩たる思いにとらわれた。
この一首のなかに食害対策というようなことはひと言も述べられていないのですが、現代の日本で「鹿を撃つ」とすればどういう場面かと考えて、以上のように読んでみました。一、二句と美的に表現しているところが結局部外者でしかない立場を表しているのでしょう。複雑なことを言おうとされているようなので、短い連作などの形にすれば、より読者に伝わるのではないかとも思います。
Posted by 大室ゆらぎ at 2011年11月16日 13:40

この記事へのトラックバック