この記事へのコメント
言葉のよく練られた完成度の高い歌だと思います。揺り籠を揺らす母の姿、それもその母のそのまた母の、という具合に代々の母が浮かんできますが、でもよく読むと<母の顔>は出てこないのですよね、「いくつもの指」と、指だけがそれも代々の母の指がイメージとして重なり合うように浮かんでくる。これはシュールで、ちょっと怖ろしい映像です。もし、母の顔が出てくるなら、それはやさしく微笑む幸せそうな若い女の顔になるのでしょうが、いささか陳腐になりがちなそういうありきたりの映像ではなく、指だけを出すのは、なかなかいいな、と思いました。
 指が喚起するイメージとは何なのか、といろいろ想像されます。私は揺り籠を揺らすのだ、という母の意志そのものでしょうか。これもちょっと、あるいは不気味かもしれません。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年11月06日 04:18
前評者の意見に賛成です。
よく出来た歌で、わたしも「恐さ」を感じました。近い将来、揺り籠の中の子供は意志を持ち動きはじめて、歌のような平和はほんのいっときのことのように思われます。やはり「指」を出して、母親やその母の存在そのものを出さない作りがよかったのでしょう。
Posted by 近藤かすみ at 2011年11月06日 09:51
揺りかごを揺らす手の指だけが見えている。見ている乳飲み子である作者は、その指が自分の母親とその母、つまり祖母であることを認識している。母親や祖母は当然作者である乳飲み子の顔を笑みを湛えてのぞき込んでいるであろうが、作者である乳飲み子の視野はそれをとらえられない。ここに作者が表現したかったことが投影されているのでしょうが、その具体が見えぬまま、前評者同様に「怖さ」が滲み出てくるように感じます。
 独特な味わいのある歌だと思いました。
Posted by 村上 喬 at 2011年11月13日 18:45
前評の方からは高い評価が得られていますが、私にはあまり伝わってきません。特に結句の「指」が何を言いたいのか、よくわかりませんでした。作中主体は、揺りかごをゆらす母やその母(これも単純に祖母というよいりも、先祖代々にように思える)を(心理的な距離として)遠くから眺め、感情移入していないように思えます。そして、落としどころが「指」。母の意志そのものという解釈も提示されましたが、しっくりはきません。育児ノイローゼとも思えないです。何を主張したいのかわからない、という点については恐さ、不気味さを感じました。
Posted by 村田馨 at 2011年11月14日 04:05
村上さんのように、揺り籠の中の子供の視点の歌とする解釈は面白いですね、確かにそういう解もあり得るなあと。
村田さんのおっしゃるように、「指」が何を表すか、というのはやはり明快ではないのですが、それもこの歌の<簡単に答えは出さない>という面白さではないかと思うのです。最後に、指、それも先祖代々の女たちの指だけ、映画の手法みたいにズーム・アップするわけでしょう。長いドラマのエンディング・シーンみたいで、「これは何なのか」という衝撃が(大袈裟ですが)はしって、インパクトがあるように思うのです。この揺り籠のシーンに作者が感情移入していないのは当然のように思えて、突き放したような捉え方があるのではないか、と。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年11月14日 06:18
赤ん坊をかわいがる母親と祖母を詠んだ歌と読めて、
僕は怖さというものを全く感じませんでした。

結句が「いくつもの腕」とか「いくつもの手」であれば、
母親と祖母だけでなく先祖代々の母親たちという解釈も可能でしょうし、
そのほうが作品としては皆さんの読みのように怖さも加わった
魅力あるものになったとは思います。

しかしながら、「いくつもの指」ということなので、
これは単純に母親と祖母のそれぞれ10本の指と解釈するべきでしょう。
この歌のおもしろさは、母親と祖母の指にクローズアップしたところにあって、
あたかも指一本一本がそれぞれの意志を持って
赤ん坊をかわいがっているように1首が読めるところにあるのではないでしょうか。
 
Posted by 伊波虎英 at 2011年11月14日 12:04
この歌の本質としては、ただ揺り籠があって、<母たちの>の<指>が揺り籠を揺らしているという映像があるだけなのです。他には何もない。
揺り籠の中には、赤ん坊はいるかもしれないし、もしかしたら、赤ん坊などいないかもしれない。ただ唯物的に揺り籠があって、ズーム・アップした指が機械仕掛けのように、カタッ、カタッ、カタッ、と揺り籠を揺らしているという映像です。それだけで十分にシュールな、不思議な、抽象的な映像です。
伊波さん、゜この歌、よく読んでみてください。<指>は赤ん坊をかわいがってなどいないのです。<指>が触れているのは、揺り籠だけです。赤ん坊の映像はここにはないのですね。
母や祖母たちが赤ん坊をかわいがるというのは、読み手の思い込みに過ぎないのだと思うのです。母性など超えたものをこの歌は表しているように思います。
作者の意図はどうかは分からないのですが、この歌ひどく気に入ってしまいましたので、こういう<読み>してみたいと思うのです。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年11月14日 17:23
私も、田宮さんと同じく、本作品から赤ん坊をかわいがっているようには思えないです。ただ機械のごとく、無感情に揺りかごを揺らしている人物が想像されます。田宮さんの「もしかしたら、赤ん坊などいないかもしれない」という点が鋭い指摘です。たとえば、赤ん坊は死んでしまったにもかかわらず、それを認めないままこころを病んでしまった「母親」が無人の揺りかごをゆらしている、といった描写なら的確のように思えます。
Posted by 村田馨 at 2011年11月14日 18:12
 この歌の醸し出す「怖さ」は、前評にあるように作者がデフォルメされて、特定できないことに因るのだと思います。作者は乳飲み子ともなりうるし、母親ともなりうる。もしかしたら母親さえ存在しないのかも知れません。例えば、作者はただ、窓際で風に揺れる揺り籠を見ているだけなのかも知れない。そして結句で提示されている「いくつもの指」という言葉がその「怖さ」を増幅しているようです。
Posted by 村上 喬 at 2011年11月14日 21:14
 指があれば、手があるし、腕、からだも当然あるので、僕には特に「指」だけ出しても、あまりこの表現は生きていないようにおもわれます。
 「あさなゆうな」や「(母の)そのまた(母の)」や「いくつもの」という表現には、すこしずつ疑問がのこります。「あさなゆうな」は、長い時間(の繰り返し・継続)で、ここでは、ひとつの場面とした方がいいようにおもわれます。「そのまた」は、きつすぎるし意味的には本来必要無い表現です。一人だとすれば「指」は普通に10本でしょう。
 3つそれぞれが、ぼやける、あるいはあいまいな方向の表現で、シャープに欠けたものになっているようにおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2011年11月15日 07:41
前の書き込みがエラーだったようなので、もういちど書きます。コメントくださったかたがたありがとうございました。
私としては作中主体は母の系譜そのもの、のつもりです。
だいたい読みとっていただいたようで、ほっと
しております。なにか不気味というのも狙いでした。
山寺さんのおっしゃるように<あさなあさな>と<そのまた>は苦労した揚句の個所で、やっぱり問題ありですね。再考してみます。
Posted by 青柳泉 at 2011年11月27日 12:47

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