この記事へのコメント
昨日、この歌のコメントを送ったのですがエラーだったみたいなので再投稿します。
心余って言葉足らずの典型のような歌なんですが、作者の言おうとしていることはよく分かるし、インパクトがあります。
「人間はほかの誰かがやることで」というフレーズはなかなか面白くて、確か花田清輝の書いたものの中に「生きることか、そんなことは家来どもに任せておけ」という足利義政の名セリフがあって、それを思い出したりしたのですが、<人間>なんでどうでもいいというちょっと不貞腐れた超俗性があるわけでしょう。
それに、人間やめるのだけれども人間の最たる証明というべき言葉だけは使う、でも人間はやめる、という矛盾した、理屈の通らないことを歌にしようとしているわけです。
ただ、最後の「言葉使って」のところが説明不足で分かりにくい。これ、何とか推敲すれば面白いのだけどなあ、惜しい気がします。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年11月10日 12:04
田宮さんの引用されているのは、
ヴィリエ・ド・リラダンの戯曲『アクセル』第四幕Uのアクセルのことば、
「生きる? そんなことは下僕共がやつてくれるさ。」ではないでしょうか?
(齋藤磯雄訳 ヴィリエ・ド・リラダン全集 第三巻 東京創元社)
この台詞はかなり有名で、ウィキペディアのリラダンの項目などにも載っています。
実は、私もこの歌の上句「人間は他の誰かのやることで」を読み、すぐにこのことばを思い浮かべました。解釈としては、田宮さんの「それに、」以下のご意見に賛成です。
「人間は他の誰かのやることでわたしは(人間であることを)やめる言葉(を)使って」と読むのでしょう。「人間であることをやめる」ことは可能だと思いますが、それを、人間が人間たるひとつの根拠とも言うべき「言葉(を)使って」行う! いったいどういう風に言葉を使うのか? もし出来るのだとしたら、私はその方法を知りたいです。
Posted by 大室ゆらぎ at 2011年11月10日 16:35
 人間は言葉を使うものという命題を立てると、言葉を使いながら人間をやめるという論理は矛盾となるでしょうが、「人間」の定義によっては別の解釈も成り立ちうるように思います。例えば、人間として使ってはならない言葉があると仮定するならば、言葉によって人間をやめることもできるのかも知れません。(それがどんな言葉なのかはわかりませんが)
 「他の誰か」という言葉に込められた作者の気持ちがあるように読みましたが、もう少し読み解くためのヒントが欲しく思いました。
Posted by 村上 喬 at 2011年11月14日 21:33
村上さんの「人間として使ってはならない言葉があると仮定むするならば、言葉によって人間をやめることも出来るのかも知れません」−−−−にああ、なるほどなあ、と感銘受けました。
たとえば、極めて非人間的な言葉とか、tabooに触れる言葉とか、人として使ってはならない、たとえば放送禁止用語とかをばんばん使って、、自分をどんどん非人間に追いやってゆくとしたら、それが「人間やめる」に繋がっていくのかもしれないと思いました。もしかしたら、現代の似非ヒューマニズムに対する攻撃になるかもしれない。
ただ、作者の意図がそこまであったかどうか。作者に聞いてみたいところです。
Posted by 田宮ちづ子 at 2011年11月16日 19:16

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