この記事へのコメント
「治部坂(じぶざか)」は長野県にある峠、スキー場がある所だそうです。「ぎんいろ」は雪景色でしょう。「月」の「ぎんいろ」とも響き合っているように感じます。三日月ではありきたりになってしまうところ、「四日の月」と言われたのがいいと思います。「すべらかなへり」は四日の月の弧の部分と思いました。そろそろ沈みかけているその四日の月から視線を落としてくると積雪の治部坂峠が見える。美しい景が想像されます。1字アケも効いていると思いますが、四日の月は西の空に沈むのでしょうから、その四日の月がおぼろであるというような情報がないと、結句「明日は雪らし」に実感がこもらないように思いました。「すべらかなへり」からは、よく晴れて月もクリアーに見えるさまが想像されて、それなら明日も好天なのでは? という気がしてしまいました。
Posted by 斎藤 寛 at 2012年03月14日 06:44
三日月のへりはかなり急ですよね。それより少しふっくらとした四日月のへりはやや緩やか。それを坂道に見立てたのだと思いました。
その月のへりの坂道が、「ぎんいろ」に光っている。それは雪の積もった「治部坂」なのかもしれない、という。これは言わば幻視でしょうか。治部坂とはどんな坂かは分かりませんが、なにやら古典的な由緒ある地名のような感じがします。治部省からの連想で。
月が銀色に光っているところから、明日の雪を思っている。と、解釈しましたが、間違っているかもしれません。でも、幻想的な豊かさのある歌だと思いました。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年03月14日 06:56
角川『短歌』誌の昨年10月号巻頭グラビア「名歌・秀歌の舞台」は、藤原龍一郎さんが書いておられるのですが、永井陽子『樟の木のうた』の
「ひと日燃え秋暮れかかる治部坂(ぢぶざか)にとんぼが落とすぎんいろの羽根」
が取り上げられていました。「ぎんいろの」が重なっていますし、この歌と関わっているのではないでしょうか? 藤原さんは「実体としての治部坂というより『治部坂』という言葉自体に魅力を感じて、歌の中に詠み込んだのではないかと思える。」と書いておられます。永井陽子さんの歌に詠まれた秋の治部坂、その治部坂の冬に思いを馳せた歌なのかとも思います。そうだとすると、四句までは幻想で、一字空けた結句は作者が現在いる場所のことを言っているのかも知れません。もしそうだとしたら四句までの幻想だけで詠い切った方が良いような気もします。その方が幻想の強度が増すと思うので。一方、「明日は雪」になりそうな日、「四日(よか)の月のすべらかなへりに」、かつて行ったことのある「実体としての治部坂」の雪を思っている、と読むことも可能かと思います。
Posted by 大室ゆらぎ at 2012年03月14日 12:29
「四日の月」も「治部坂」もはじめてみる言葉で、わからないのに、まず、美しい歌だと感じました。
「明日は雪らし」がストンと入ってきます。
「四日の月」っていう呼び方があるんですね〜。
Posted by 三田村まどか at 2012年03月16日 16:42
大室さんのご指摘の永井陽子さんの歌を踏まえておられるとすれば、なかなか見事な本歌取りだなと思いました。
秋の紅葉の治部坂に、トンボの羽がひらりと落ちる。ーーーーー、という映像があって、
その羽のぎんいろがクローズアップされて大写しになる。
そのぎんいろが雪の銀色に変わって、カメラがすっーーと後退すると(これ、映像の手法でなんと言うのでしょうか)、全体が雪の銀世界の治部坂に転換しているーーー、という感じになり、この19番の歌に変化します。
連歌・俳諧の付合の手法を見るようで、感心しました。
永井陽子さんの歌を踏まえなくても独立して表現できていると思いますが、あわせて読むのもなかなか面白いです。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年03月17日 04:33
みなさん好意的な意見が多いのに、私には意味のとれない歌でした。
<すべらなへりに>の<に>が分かりにくくしているのではないかとおもいます。作者の位置がわからない。まるで月から坂を見下ろしているように読めてしまう。
明日は雪らしもとってつけたようで必然性が感じられない。
いろいろ偉そうで、すいません。
Posted by 青柳泉 at 2012年03月20日 15:20

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