この記事へのコメント
徒手空拳の人も実は内面に「言葉」という居力な武器を持っている。そのことをふまえれば、この歌の主人公は鋭い言葉の使い手なのかも知れない。
Posted by i伊庭日出樹 at 2012年03月07日 22:06
なるほど、伊庭さんのコメントで納得しました。〜 一度安心したのですが、ドラマ性のある歌だなあと思って読み返していると、凶器は刃物かもしれないとも思います。男女の心理や物語を想像させる歌で面白いですね。
Posted by さとう ひろこ at 2012年03月10日 19:23
ある年齢層から上の世代の読者は、一読、火炎瓶という凶器がかつて身近(?)にあったことを想起するでしょう。当時、市販の飲料の多くは瓶入りでした。お茶を飲料として売るなどということはありませんでした。コーラなどがよく売れていた時代でした。空き瓶の用途のひとつとして、それを火炎瓶として使う、というのがありました。

作中のわれも、あの凶器を手にして投げたことがあった。が、そんなことはすべて忘れたかのような顔をして、今風のペットボトルのお茶を飲んでいる。お茶というのも、「今」を表わすのに適している素材だと思います。

そこから転じて、上記の伊庭さんのコメントで言われているように、だがな、俺には言葉という目には見えない凶器が今もあるんだぜ、という自恃の念も響いてくるように感じます。思わず「俺」と書きましたが、やはりこれはおとこうたですね。
Posted by 斎藤 寛 at 2012年03月11日 07:39
斎藤さんの解釈にうなずいてしまいました。
「凶器など持ちしことなき顔をして」と「持ちし」が過去形ですから、かつては凶器を持ったことがあるということですね。
ペットボトルで火炎瓶まで連想する・・それは特定の世代だと思います。
そうでなくてもペットボトルのお茶は作者の過去と表面的には平穏を装っている現代を対比する道具としてよく効いています。
お茶を飲んでいる作者の心理まで想像できる歌で、いい歌ですね。
感情移入したくなる歌です。
Posted by 海野雪 at 2012年03月11日 10:27
訂正です。上記コメントの中の

× 居力
○ 強力

です。すみません。
Posted by 伊庭日出樹 at 2012年03月11日 11:52
皆さんの評を読んで、だんだん意味がわかって来ました。後半、ペットボトルのお茶を飲むというのは、現代的でのどかですが、それ以前は何をしてきたのかわからない。火炎瓶闘争かもしれないし、犯罪行為かもわかりません。戦争中の武器という可能性もあります。
しかし人間、年を取ると考えも身体も丸くなっていきます。時間の流れに身を任せた感慨のようなものを感じました。
Posted by 近藤かすみ at 2012年03月11日 18:22
斎藤さんの解釈で俄然魅力の出た歌ですが、元の歌より解釈の方が面白いかもしれない。斎藤さんの読みをなるほどと評価したうえで、少し気になるものがあります。
ペットボトルが火炎瓶か何らかの凶器をイメージさせるというのは、海野さんのおっしゃるように特定の世代かもしれません。分かる人に分かればいいのだから、というのも一つの考えですが、この歌の場合、ペットボトル=火炎瓶という思考回路を保証する何らかの要素がほしい。その方が歌が読者に開かれていきます。檸檬が爆弾を連想させるというのは梶井基次郎の作品の力ですが、その前提があるから、道浦もとこさんの「無援の抒情」のあのレモンの歌が生きたと思うのですが、そのような前提がペットボトルにはまだない。(これから生まれるかも。)
私は学生運動の世代ではないので、ペットボトルと火炎瓶の回路はありませんが、この歌、若い(かもしれない)女性の歌のように思ってました。「私は凶器など持ったこともない」そんな顔をしているという自己認識があって、でも内面は違うという意識があるわけです。そんな、外面と内面のギャップ、もてあます自意識を詠んだのかなあ−−という読みもこの歌では可能ではないかと思います。いろいろの解釈が生まれる歌です。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年03月12日 10:40
ペットボトル=凶器とのつながりから思い起こされるのは
空港でのチェックです。
飲みものを差し出し、時には靴を脱ぎ、、、
捨てられるのなら飲んでしまおうか。
少し寂しい生活のひとこまと読ませていただきました。
Posted by 北島裕子 at 2012年03月21日 15:05

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