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短歌人ネット歌会場
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2012年05月05日
第10回ネット歌会詠草/29
ひとびとのつむじつむじが黒黒と品川駅でたくさん降りる
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この記事へのコメント
歌のリズム、面白いです。<ひとびと><つむじつむじ><黒々>の繰り返しがなんか楽しい。
日本人の髪が黒いというのは当たり前のことなんでしょうけど、それに対して素直におどろいている感じがあります。「たくさん降りる」というちょっと幼い言い方でそう感じられるのかも。海外、欧米あたりから久しぶりに日本に戻ると、日本人群衆の「つむじの黒々」にぎょっとすることもありますけど、日本にいると見慣れてしまって、なんとも感じないのですけどね。
この品川駅は山手線の品川でもいいでしょうが、東海道新幹線の品川駅の方がふさわしい(ような気がします)。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年05月05日 11:24
わたしも、「つむじつむじ」と言う言い方が面白いと思いました。
ホームから下り階段を下りてゆく時、自分の前方にはたくさんの後頭部が足の運びに合わせて上下しながら、降りて行く訳で、そのリズムも感じられます。
とは言え、最近は様々な茶に染める人も多い訳で、「黒黒と」ではなく、黒黒茶黒、なんて言うのも面白いかと思ったのですけれど、通勤時間帯だと、やはり黒いつむじが多いのかもしれませんね。何しろ、都会の通勤時間帯の電車のホームには縁無く、暮していますので。
Posted by 弘井文子 at 2012年05月06日 09:54
実際はどうなのかは、作者に聞かないと分かりませんが、一般的には、「品川駅で(人々が)降りる」という時には、車両からひとびとが降りる、つまり下車する様子と取るべきだと思うのですが。弘井さんはそれをホームの階段をひとびとが下りてゆく状況を上から主体が見ていると解釈されているのですけどね
乗客たちが次々と下車していく様子を主体は車内から見ていて、「たくさん降りるなあ」と思っていると取るべきではないかと思うのです。と、考えますと、私が先に、新幹線がふさわしいと感じたことにつながるのですが、新幹線では車内通路を人々は一列になって整然と下車していくわけですが、それを座席から見上げていると「つむじつむじが黒々と」というのが、結構リアリティがあるんですね。主体の位置をどこに置くか、でこの歌の解釈は変わってくると思いますが、私は主体は車内にいる、と受け止めましたわけです。別に新幹線でなくてもいいのですけどね。、
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年05月08日 22:34
「つむじつむじ」という表現からすると、「ひとびとの」頭を上から見下ろしているのではないでしょうか。「つむじ」というのは、たいがい頭頂に近いところにあるかと思うので。
一方、「降りる」は、電車から「降りる」ということだと思います。ホームへと階段を下りつつ(品川駅は、ホームまで階段を下りて行く形になっていたと思います)、着いたばかりの電車から「たくさん降りる」「ひとびとの」頭を見ている。この作品からはっきりした状況を読み取ることは出来ないのですが、ラッシュ時の山手線、京浜東北線などを思い浮かべました。子供っぽい表現をすることによって、事改めて驚いているようなところが出ているのではないかと思います。しかし、先に述べたように、いくらか曖昧な感じは残ります。
Posted by 大室ゆらぎ at 2012年05月09日 21:01
大室さんの評で、わたし自身が持った感じが良く分かりました。つむじは、頭頂にあることが多いので、見下ろす感が強く、階段を下りてゆく人群れを思い描いたのでした。
Posted by 弘井文子 at 2012年05月12日 22:10
作者は、「つむじつむじが黒々と」という表現で、つむじそのものではなく、つむじから生えている髪が黒々として見える、と言っていると思うのです。つむじをちゃんと見ようとすると確かに上から覗き込んで、髪をかき分けて「おっ、つむじ発見」という形になると思うのですが、そういうことではないと思う。
つむじがあるのは、あれ頭頂部なのかなあ。頭頂部にあるのは仏像の頭頂部にぽこんと出っ張ったものがあるでしょう。つむじはあれよりは後ろの、むしろ後頭部にあると思う。頭頂部と後頭部の境目と言うべきでしょうか。
よく車内のラッシュ時など周囲の人々の頭を見上げていると(私は背が低いので見上げます)、案外、後頭部のつむじがこれがまたはっきりとよく見えるのですよねえ。つむじは後ろからもよく見えますよ。一度、周囲の人の頭を後ろから見てみてください。
この歌のポイントとしては、つむじつむじが黒々と、という表現で、ひとびとが大勢下車している様子を後ろから作中主体が見ている、という主体の位置が見えてくるという点にあるのではないかと思うのです。この点に関して、それほどこの歌は曖昧ではないと思います。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年05月15日 20:00
ひとびとのつむじつむじが黒黒と品川駅でたくさん降りる
「ひとびと」「つむじつむじ」「黒黒」と、畳語を三度重ねています。
単純すぎて逆にうるさい感じ。とくに「つむじつむじ」は幼児語でしょうね。
プラス「たくさん降りる」という幼児っぽい言葉遣い。
ひびきとしてはおもしろいのですが、やや単純すぎるでしょう。
「ひと」「つむじ」「黒」「品川駅」「たくさん」「降りる」の六語を
「の」「が」「と」「で」という屈折のない助詞でつないだ、ぺらっとした
幼い感じのうたになってしまっています。畳語は一度だけとして、
結句をもう少し工夫するべきかと思います。一か所文語を入れるだけでも
ずいぶん変わるはずです。
「つむじ」は辞書でひいても一般的に言っても頭頂部にあると考えるのが
普通でしょうね。とすると、これは列車から降りてくる人たちを上から
見下ろしていると読むべきでしょう。品川駅のエスカレーターまたは階段を
ホームに向かって下りていく作者が、いまどっと列車から出てくる人たちの
頭を上から見て「わ、つむじがいっぱい降りてきた」と感動して詠った、
と考えるのが適切ではないでしょうか。
Posted by 花鳥 佰(かとり・もも) at 2012年05月15日 22:31
花鳥さんの仰るように「わ、つむじがいっぱい降りてきた」と言う感動をエレベーターか階段の上から見ている、という解釈はなるほどという感じで納得できますね。そのときの主体の位置は、車内ではなくホームのある位置から、ということになりますが、そういう解釈の方がいいかな、という気がしてきました。
実感としては、「品川駅で人々が降りる」という場合、主体は車内からそれを後ろから見ている、という方が、私としては理解しやすいのですけどね。
この歌、ぽそぽそぽそとひとり言みたいにつぶやいている、その語感とリズムが独特で、これは作者の個性ではないかと思うのです。なんか途方に暮れているような、屈折したようなかわいい女の子の風情が(この際、男の子でもいいのですが)、歌から立ち上がってくるようで、それがこの歌の魅力かなあと思う。レトリックを駆使した上手な歌というわけではないのですが、なかなかいい歌だと思います。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年05月17日 19:43
この歌は意識してたくらんで(工夫して)作った歌と読みました。そして、そのたくらみは成功していると僕は思います。巧い、魅力のあるいい歌だと思います。
Posted by 永井秀幸 at 2012年05月18日 16:46
永井さんの前評の、たくらみが成功している歌というコメントに同感です。
短歌らしくない、三回もの繰り返しや、幼いこどもが発していることばのような表現。
奇妙な違和感、質感を敢えて生じさせている歌であると思います。
その違和感は、けっして嫌な印象ではなく、この一首を突出させることに成功していると思います。
Posted by 梶崎恭子 at 2012年05月22日 21:06
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この品川駅は山手線の品川でもいいでしょうが、東海道新幹線の品川駅の方がふさわしい(ような気がします)。
ホームから下り階段を下りてゆく時、自分の前方にはたくさんの後頭部が足の運びに合わせて上下しながら、降りて行く訳で、そのリズムも感じられます。
とは言え、最近は様々な茶に染める人も多い訳で、「黒黒と」ではなく、黒黒茶黒、なんて言うのも面白いかと思ったのですけれど、通勤時間帯だと、やはり黒いつむじが多いのかもしれませんね。何しろ、都会の通勤時間帯の電車のホームには縁無く、暮していますので。
乗客たちが次々と下車していく様子を主体は車内から見ていて、「たくさん降りるなあ」と思っていると取るべきではないかと思うのです。と、考えますと、私が先に、新幹線がふさわしいと感じたことにつながるのですが、新幹線では車内通路を人々は一列になって整然と下車していくわけですが、それを座席から見上げていると「つむじつむじが黒々と」というのが、結構リアリティがあるんですね。主体の位置をどこに置くか、でこの歌の解釈は変わってくると思いますが、私は主体は車内にいる、と受け止めましたわけです。別に新幹線でなくてもいいのですけどね。、
一方、「降りる」は、電車から「降りる」ということだと思います。ホームへと階段を下りつつ(品川駅は、ホームまで階段を下りて行く形になっていたと思います)、着いたばかりの電車から「たくさん降りる」「ひとびとの」頭を見ている。この作品からはっきりした状況を読み取ることは出来ないのですが、ラッシュ時の山手線、京浜東北線などを思い浮かべました。子供っぽい表現をすることによって、事改めて驚いているようなところが出ているのではないかと思います。しかし、先に述べたように、いくらか曖昧な感じは残ります。
つむじがあるのは、あれ頭頂部なのかなあ。頭頂部にあるのは仏像の頭頂部にぽこんと出っ張ったものがあるでしょう。つむじはあれよりは後ろの、むしろ後頭部にあると思う。頭頂部と後頭部の境目と言うべきでしょうか。
よく車内のラッシュ時など周囲の人々の頭を見上げていると(私は背が低いので見上げます)、案外、後頭部のつむじがこれがまたはっきりとよく見えるのですよねえ。つむじは後ろからもよく見えますよ。一度、周囲の人の頭を後ろから見てみてください。
この歌のポイントとしては、つむじつむじが黒々と、という表現で、ひとびとが大勢下車している様子を後ろから作中主体が見ている、という主体の位置が見えてくるという点にあるのではないかと思うのです。この点に関して、それほどこの歌は曖昧ではないと思います。
「ひとびと」「つむじつむじ」「黒黒」と、畳語を三度重ねています。
単純すぎて逆にうるさい感じ。とくに「つむじつむじ」は幼児語でしょうね。
プラス「たくさん降りる」という幼児っぽい言葉遣い。
ひびきとしてはおもしろいのですが、やや単純すぎるでしょう。
「ひと」「つむじ」「黒」「品川駅」「たくさん」「降りる」の六語を
「の」「が」「と」「で」という屈折のない助詞でつないだ、ぺらっとした
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ずいぶん変わるはずです。
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見下ろしていると読むべきでしょう。品川駅のエスカレーターまたは階段を
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と考えるのが適切ではないでしょうか。
実感としては、「品川駅で人々が降りる」という場合、主体は車内からそれを後ろから見ている、という方が、私としては理解しやすいのですけどね。
この歌、ぽそぽそぽそとひとり言みたいにつぶやいている、その語感とリズムが独特で、これは作者の個性ではないかと思うのです。なんか途方に暮れているような、屈折したようなかわいい女の子の風情が(この際、男の子でもいいのですが)、歌から立ち上がってくるようで、それがこの歌の魅力かなあと思う。レトリックを駆使した上手な歌というわけではないのですが、なかなかいい歌だと思います。
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その違和感は、けっして嫌な印象ではなく、この一首を突出させることに成功していると思います。