この記事へのコメント
松任谷由実『緑の町に舞い降りて』からの引用と作者の感想でありましょう。私はしばしば先行する詩や詞を引用する作品は先行作品を超えることはない、と述べています。しかし、この作品の引用の仕方は原作に疑義を述べるというかたちです。

輝く五月の草原を
さざ波はるかに渡ってゆく
飛行機の影と雲の影
山すそかけおりる
着陸ま近のイヤホーンが
お天気知らせるささやき
MORIOKAというその響きが
ロシア語みたいだった

これが、松任谷由実の詞です。「MORIOKAというその響きがロシア語みたいだった」というところがこの作品のもっともおおきなポイントであり、作者の発見だと、私などは感服したのですが、何度聞いてもそうは思わないわよ、というツッコミもまたあろうか。
-ODE OF MORIOKA-をひさしぶりに聴いています。


Posted by 西王 at 2012年05月05日 11:28
>「MORIOKA(盛岡)」と何度聞いても私にはロシア語みたいには聞こえずにいる

わたしもこの作者と同じで「MORIOKA」はどう聞いてもロシア語には聞こえないです。
これは、西王さんのようにユーミンを知らないと入ってゆけない歌のようですけれど、こうして西王さんの評を読んで、歌を読み返すと、趣があって、「ピンポイントでわかるひとには分かる」と言うのも「あり」かと思ったりします。
他にはMORIOKAと、ロシアとのつながりは、何かあるのかなぁ。
Posted by 弘井文子 at 2012年05月21日 21:51
「MORIOKA(盛岡)」と何度聞いても私にはロシア語みたいには聞こえずにいる

うたの内容がよくわからなかったのですが、西王さんの書き込みによって、あ、松任谷由美の曲から来ているのねと、わかりました。

「MORIOKA」は発音は母音のO、I、Aをはっきり発音するために唇をかなり大きく動かさなければならなくて、そのあたりがロシア語の発音に似てるの? と思いましたが、ロシア語知りませんので、わかりません。
ただ、盛岡という土地自体が高橋克彦の『炎立つ』などにも出てくるように大昔には蝦夷が住んでいた土地で、いくらか(かなり?)異国(北国)情緒があるのかな、という気はします。というと、東北全体がそうなのですが。

地名にも蝦夷のことばに由来するものがたくさんあるでしょうから(「盛岡」はそうではないようですが)、東京生まれの松任谷由美の耳には「盛岡」が異国の響きをもって聞こえ、たぶん盛岡になじみの深い作者の耳にはそうは聞こえない、というところに、人の耳は土地の歴史、特徴までを含めて聞きとってしまう、という不思議さが滲んでいるようで、おもしろいと思います。

Posted by 花鳥 佰(かとり・もも) at 2012年05月21日 21:58
>「MORIOKA(盛岡)」と何度聞いても私にはロシア語みたいには聞こえずにいる

作者のひとりごとのような歌ですね。
西王さん、ご指摘の松任谷由実の歌を知らなかったので、MORIOKAとロシア語がなぜ繋がるのか、わからないままでした。
連作の中で、松任谷由実の歌のことが出てきたらわかるかもしれませんが、一首独立では情報が足りない気がします。
Posted by 近藤かすみ at 2012年05月21日 22:22
この歌、知りませんでした。
というか歌からの引用だともわかりませんでした。

一首の中で、なんらかの(曲でも詩でも歌でもユーミンでも)ヒントが欲しかったです。

「わたしには」「みたいには」の「には」の反復も気になりました。
Posted by 高松 霞 at 2012年05月22日 02:18
西王さんの解説を読まなければ解読できませんでした。近藤かすみさんのおっしゃるようにいささか情報量不足かと思います。詞書で補足してもいいのかもしれません。
Posted by 村田馨 at 2012年05月22日 12:58
たしかに前世紀の唄ですが、松任谷由実『緑の町に舞い降りて』の認知度が低いことに驚いています。

着陸ま近のイヤホーンが
お天気知らせるささやき

たとえば遠距離恋愛を仮想して、愚かな私は、このディテールの描写にふと涙ぐみます(笑)。

したがって、余計な「詞書」には断固反対です。
作者も「詞書」には反対だと思います。

なお、イヤホーンからMORIOKAの天気を伝えてくる空港は、「いわて花巻空港」です。
この歌詞の背後には「イーハトーブ」があるのでしょう。
Posted by 西王 燦 at 2012年05月22日 20:04
松任谷由美の歌を知らなくても、「MORIOKA(盛岡)」は「モリョーカ」と聴こえそうだなと思いました。「マトリョーシカ」みたいな感じでね。
でも作者は何度きいても、そのようには聴こえなかった。
面白い作品ですね。
西王さんの解説でよりよく鑑賞できました。
Posted by 庭野 摩里 at 2012年05月23日 20:05
この歌、不思議な魅力があって、なんだろうと楽しんでいたのですけど。
松任谷由美の歌は全く知らないです。音楽音痴なので。実は、顔もよく知らない……。
でも、この歌、松任谷由美を知らなくても、あるインパクトがあるのですね。
まず、盛岡の発音がロシア語に似ている、という強固な前提条件(あくまで作者にとって、ですが)があることが分かります。
作者はそれに対して、なにやらぐずぐずと抗っているという感じです。「には」の反復にその抗いがうかがわれます。作者は相当、その強固な前提条件にこだわっています。
そこで、もりおか、の発音が本当にロシア語に似ているのかどうか、これは分かりませんね。でも、作者の抵抗とこだわりは伝わってくるのです。このこだわりが、この歌の面白さのように感じられたのです。
西王さんのコメントで、この前提条件がユーミンであると分かりました。ユーミンって、一時期、カリスマ的な威力があったでしょう?。この威力に対する、作者のぽそぽそとした抵抗が感じられるのですけど。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年05月23日 20:09
「MORIOKA(盛岡)」と何度聞いても私にはロシア語みたいには聞こえずにいる

すでに書きましたように、これはあきらかに、松任谷由実『緑の町に舞い降りて』からの引用、もしくは連想の作品です。

今回の歌会のメンバーが、なぜかこの唄を知らなかったということによって、「引用」「原典」とはなんだろう?ということを、他の作品の「河野裕子」や「ファンク一家」と思い合わせています。

すべての日本人にアンケートするならば、『緑の町に舞い降りて』は、河野裕子を圧倒するはず。

飛行機から降りてきた年若い女性が「MORIOKAってロシア語みたいね」と、愚かな私にささやく場面を想像すると、私は涙ぐむ。

そんなバカな!という作品でありましょう。
Posted by 西王 燦 at 2012年05月24日 21:14
極端なことを言えば、引用、典拠などはどうでもいいのではないかとさえ思うのです。短歌がある典拠を踏まえて創作されたとしても、表れ出た表現だけがそのすべてではないか、と。もちろん典拠を知って、なるほどと理解が深まるのは当たり前なのですが。
現代の短歌を読む、という場合、すべての典拠を知るわけにはいかないし、人間は百科事典ではないから理解できないことも多い。でも、分かる人には分かる、分からない人にもその言葉や表現による何らかのインパクトが感じられることもあります。そういう歌を作りたいとは思いのですけどね。
西王さんがあまりに涙ぐんでいらっしゃるので、ユーミンのCD買ってこようという気になりました。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年05月25日 04:23
今回、コメントをいただきました皆様ありがとうございました。特に私以上に熱き思いで松任谷由実の『緑の町に舞い降りて』を丁寧に解説していただいた西王さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
 いただいたコメントの中の「情報不足」「これだけでは内容がよく分からない」という部分については、提出作品の出来の未熟さからこのようなコメントをいただくことをある程度は想定していましたが、他方で確かに「分かる人にだけ分かってもらえればよい作品」との勝手な強い思い込みもありました。(この作品に関しては西王さんのコメントのとおり、初めから「詞書」等を付ける気にはとてもなりませんでした)
 今後、この辺の難しさについてももう一度良く考えて見たいと思います。

 最後に、この曲『緑の町に舞い降りて』-ODE OF MORIOKA-を知らない方には是非「今度聴いてみて」とお勧めします。
(ちなみに私は一番の歌詞の他に、二番の冒頭部分の「銀河の童話を読みかけて・・・」から始まる歌詞もとても素敵だと思うのですが・・・この話は長くなりそうなのでまたの機会といたします)
 
Posted by 照井 夕佳詩 at 2012年05月26日 17:57
ユーミンの歌はまだ、まし、だなと思うんですよ。でもプロレスのファンでなおかつ短歌を読む人って稀少価値でしょう。「分かる人には分かる」だけで詠んでいくのはちょっとしんどいと思うのだけど、「分からないだろうな」というところで覚悟して作っているわけで、そこに、それでも作る、というある必然性があるわけでしょう。それが表れていれば、それでいいのではないか、と。
前衛歌人の、たとえば山中智恵子さんの歌なんて、分からないなあと思いつつそれが魅惑的でした。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年05月27日 05:29

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