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短歌人会の公式なネット歌会会場です。
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2012年07月01日
posted by 短歌人会 at 00:10|
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壁一面の大鏡というのは、一般の住宅ではなくて、ホテルや学校など公共的な施設を想像させます。
その大鏡が夏のひかりを湛えている、ということを言うのに、「まかでみあ」というパテ語を挟んでいるのがこの歌の読みどころで、枕詞というのは新たに創り出すことができるものなのかどうかわかりませんが(季語はそれが可能らしいですね)、もし、「まかでみあ夏」を詠み込んだ良い歌がたくさん現れたら、短歌で「まかでみあ」と言えば「夏」、という連想を一般化させることも可能かも知れない、などと思ったりしました。
マカデミア・ナッツのマカデミアをあえてひらがなにして、元の語とのつながりを薄くしているのでしょうが、「まかでみあ春」「まかでみあ夏」「まかでみあ秋」「まかでみあ冬」と並べてみれば、これはもう必然的に「まかでみあ夏」だろう、という連想が働きます。
理屈を言えば、みんなみの陽光を湛えている鏡は北側の壁にあるのではないか? とも言えますが、しかしやはりみんなみの大鏡がひかりを湛えている、というのが気分としてはぴったりだろう、と思います。
ところで、夏と鏡の組み合わせを見ると、佐佐木幸綱「詩歌とは真夏の鏡、火の額を押し当てて立つ暮るる世界に」が思い出されますが、本作はそれとはまったく異なる軽快なタッチが特徴的です。じとじとした日本の夏を少しばかり忘れさせてくれるように感じました。
「壁一面の大鏡」と、大袈裟なほど大きく出たところはとても良いと思います。文字通りに取る(壁一面に大きな鏡が張ってある)というよりは、どちらかというと、ミラーガラスで覆われたビルの比喩かなという印象を受けました。もちろん、どちらとも読めるでしょう。
いづれにしても、夏のひかりを湛えた大鏡(の眩しさ)を詠っているのであって、そのことは確かに伝わっています。