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2012年07月01日
第11回ネット歌会詠草/8
孤独死のかくもあれかし在りし日のロンサムジョージの歩む高足
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posted by 短歌人会 at 00:20|
Comment(8)
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この記事へのコメント
「ロンサムジョージ」はガラパゴス諸島に生き残った稀少種の亀で、最近(6月24日)飼育先で死亡した(推定100歳以上)とのこと。この歌のおかげで知ることができました。
初句・2句でその「孤独死」を称えながら、3句以下では「在りし日・・・」の回想に転じているのが、一首の構成としては難があるところのように思います。「在りし日」から詠み起こして、結句でその「孤独死」を称える、という流れにした方が、読者としてはメッセージが受け取りやすいのではないでしょうか。
最近、「孤独死」一般を良くないこと、避けるべきことのように扱う報道が多く、僕はそれに違和感を抱いていましたので、この歌が発信しているメッセージには大いに共感しました。
Posted by 斎藤 寛 at 2012年07月07日 06:17
「歩む高足」:この表現、とても良いと思います。ゾウガメのあの独特の歩みを上手く表しています。
Posted by 大室ゆらぎ at 2012年07月09日 13:24
ロンサムジョージの解説を読んで歌意はわかりました。
察するに、作者の方はまだ「死」が身近ではないように感じられます。いつかやってくるであろう「死」に対しても、孤独で迎えたい、と漠たる思いであるようです。
私は、「孤独死」したいと思いません。また「孤独死」させたいとも思いません。
父を見送って三箇月になります。旅立つ者も、残される者にとっても、「死」による別れは辛いものです。人はひとりでは生きていけません。ゆえに、死ぬときもひとりにさせたくはない。目の前で見てあげ、意識が遠のくときはその手をとり、自分のぬくもりを感じながら旅立って欲しい。父にはそれができたことが幸いでした。立場が変われば、私もそうであって欲しい。病院のベッドで医師の気づかぬうちに冷たくなっていた、というのはイヤです。ましてや誰にも看取られないまま死んでいくのは、受け入れがたい。それは遺された者にとっても迷惑であるように考えます。
Posted by 村田馨 at 2012年07月10日 04:24
作者は別に孤独死を称えているわけではないと思いますよ。でも、村田さんの発言は胸を打ちます。心情としてはもっともです。
平安中期の源信僧都の昔から、いかに看取るか、往生のために誰かが看取って無事死を迎えさせるという作法が伝統的に日本にはあります。比叡山横川に往生院がありました。
でも、看取られない死は、子どもや身近な身内のいない人間にとっては、必然にして具体的、かつ切実な問題です。私も子どもはいないし、看取ってくれそうな人間はいません。いかに自分の死の始末をつけるか、に眼を据えて死を考えなくてはいけない。でも遺族があろうとなかろうと、自分の死を自分一人の問題として考えなくてはいけないのではないかな。
それは決してみじめでも孤独でもないと思うのですよ。
この作者も、孤独死に眼を据えて、腹をくくって、こういう死に方もいいかな、と考えているのかもしれません。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年07月10日 18:20
初句・2句について、上記斎藤のコメントで、孤独死を称えている、と記したのは、やや思い込みが強すぎたかも知れません。
「孤独死のかくもあれかし」は、やはり「孤独死」というものに先ずマイナスイメージを付与したうえで、「しかしこういう孤独死ならいいんじゃないか? こうありたいものだよ」と言われているようにも読めますので。
「孤独死」を望むか否かというような話は歌評からやや離れますので必要最低限のことだけ記しますが、僕もかつては村田馨さんのように考えていました。その後、義父の死に方(がどのようなものであったかについては省きますが)が幸福な死に方であった、とある場で言ったら、「あなたは人の死に方に幸福と不幸があるという前提でものを考えているのか?」と、ある方から強く反問され、いろいろ考えて自らの考え方を変えました。私はこのように死にたいとか、近親者の死に方はこのようであってほしい、などと思うこと自体が生者の傲慢であろう、と今は考えています。
Posted by 斎藤 寛 at 2012年07月11日 19:14
このうた、カッコいいですね。一見突き放した見方をしているようで、「あれがあのロンサムジョージの完成された生き方なんだ」と肯定もしている感じで。好感を持ちました。すみません、批評が下手なのでこのくらいしか言えませんが。孤独死はしたくありませんが、死んでからこんなふうに詠ってもらえたら幸せかも、とふと思いました。
Posted by 佐々木ゆか at 2012年07月13日 22:44
みなさんの意見に水をさすようですが(孤独死のかくもあれかし>というのは感情移入しすぎのような。ゾウガメを擬人化してはいけないという法はないのですが・・・もっと淡々と読んだ詠んだほうがいいと思いました。種が途絶えることになったわけですが・・彼にはその意識はないわけだし・・・最後の(高足>はよく観察していらしゃると感心しました。
Posted by 青柳泉 at 2012年07月17日 12:18
ご意見有難うございます。
ロンサムジョージの存在はかなり以前から知っており、ある朝係員が見に行くと死んでいたとの報道に興を催し作りました。
人の孤独死については、軽々には語れませんが、東京に住む娘は独居の父の広義の孤独死(ぽっくり死)を案じております。
Posted by たかだ牛道 at 2012年07月24日 08:54
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最近、「孤独死」一般を良くないこと、避けるべきことのように扱う報道が多く、僕はそれに違和感を抱いていましたので、この歌が発信しているメッセージには大いに共感しました。
察するに、作者の方はまだ「死」が身近ではないように感じられます。いつかやってくるであろう「死」に対しても、孤独で迎えたい、と漠たる思いであるようです。
私は、「孤独死」したいと思いません。また「孤独死」させたいとも思いません。
父を見送って三箇月になります。旅立つ者も、残される者にとっても、「死」による別れは辛いものです。人はひとりでは生きていけません。ゆえに、死ぬときもひとりにさせたくはない。目の前で見てあげ、意識が遠のくときはその手をとり、自分のぬくもりを感じながら旅立って欲しい。父にはそれができたことが幸いでした。立場が変われば、私もそうであって欲しい。病院のベッドで医師の気づかぬうちに冷たくなっていた、というのはイヤです。ましてや誰にも看取られないまま死んでいくのは、受け入れがたい。それは遺された者にとっても迷惑であるように考えます。
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でも、看取られない死は、子どもや身近な身内のいない人間にとっては、必然にして具体的、かつ切実な問題です。私も子どもはいないし、看取ってくれそうな人間はいません。いかに自分の死の始末をつけるか、に眼を据えて死を考えなくてはいけない。でも遺族があろうとなかろうと、自分の死を自分一人の問題として考えなくてはいけないのではないかな。
それは決してみじめでも孤独でもないと思うのですよ。
この作者も、孤独死に眼を据えて、腹をくくって、こういう死に方もいいかな、と考えているのかもしれません。
「孤独死のかくもあれかし」は、やはり「孤独死」というものに先ずマイナスイメージを付与したうえで、「しかしこういう孤独死ならいいんじゃないか? こうありたいものだよ」と言われているようにも読めますので。
「孤独死」を望むか否かというような話は歌評からやや離れますので必要最低限のことだけ記しますが、僕もかつては村田馨さんのように考えていました。その後、義父の死に方(がどのようなものであったかについては省きますが)が幸福な死に方であった、とある場で言ったら、「あなたは人の死に方に幸福と不幸があるという前提でものを考えているのか?」と、ある方から強く反問され、いろいろ考えて自らの考え方を変えました。私はこのように死にたいとか、近親者の死に方はこのようであってほしい、などと思うこと自体が生者の傲慢であろう、と今は考えています。
ロンサムジョージの存在はかなり以前から知っており、ある朝係員が見に行くと死んでいたとの報道に興を催し作りました。
人の孤独死については、軽々には語れませんが、東京に住む娘は独居の父の広義の孤独死(ぽっくり死)を案じております。