この記事へのコメント
ふつう、短歌で「我が」というと、「我」は作中主体を指すと思うのですが、「我が息吹」を「玉露(玉のように美しい露)」というのは、いくらなんでも美化し過ぎのように思われます。そこで、考えてみました。この歌の「玉露」は、お茶の「玉露」。「葦簀(よしず)」は、「玉露」を栽培するときに日が当らないように覆う「葦簀」。もしそうだとすると、「我が」の「我」は、お茶の木、または茶畑。作者は、茶の木に成り代わって詠っている。「萌えにし」と「にき」が使われているのは、茶の木の回想だからでしょう。また、玉露をなみなみと注ぐことはないと思うので、「満ちつこぼれつ」は比喩で、その香りや味の豊かさを表しているものと思われます。新茶の歌のようです。
しかし、「葦簀より」の「より」が分かりません。「葦簀」は、枯れた葦で作ると思うので、「葦簀より碧く」という比較の「より」ではなさそうです。玉露は、日に当てないように育てると思うので、「葦簀(のあいだ)から碧く萌えた」というのでもなさそうです。
考えた末、以上のように読んだのですが、この読みで良かったのかどうかは分かりません。いづれにしても、分かりにくい作品だとは思います。一首の中に、多くの事柄や時間が詰まっているからでしょう。もう少し密度を下げて、何首かでお茶を詠った連作にするというのも一方法かと考えます。お茶の木に成り代わって詠っているのだとしたら、そのことがもっとスムーズに分かるようになっていればと思います。
Posted by 大室ゆらぎ at 2012年07月13日 15:49
確かに、一読して難解な歌でした。玉露は日除けをして茶葉を育てると辞書で知って歌意を理解しました。我が息吹は若葉の身になっての表現でありましょう。葦簀より(出づる)我が息吹が歌の構造で、碧く萌えにしは若葉の形容です。玉露に対するオマージュです。
Posted by たかだ牛道 at 2012年07月14日 14:49
両名様とも、コメントいただき感謝いたします。新茶と詠んでいただきありがたく思います。改良し次作に励む所存で御座います。
Posted by 川音里茶 at 2012年07月23日 22:43