この記事へのコメント
見慣れたはずの庭が、ほわほわとしたピンクの芙蓉が毎日次々に咲くことで
ちょっと幻想的な雰囲気を帯びることを表現している歌だと思います。
自分ではこういう感じ方ができないほうなので、いいなぁと思いながらも
少し気になったことがあるので書きたいと思います。

一日でしぼんでしまう芙蓉や木槿は「一日花(いちにちばな)」と呼ばれますね。
「一日花」を短歌の中に使うときに「一日花の芙蓉」ではなく「一日の芙蓉の花」
と分解するように使うのは、わたしは気になったのですが…(ついたち、とも
読めてしまうし)。他の方のご意見も伺えたら、と思います。

また、AにBを想う、という短歌の作りは、AとBが「ああ、そうか」と気づく
けれど普通はあまり比喩などとして並ばないものを結ぶことで印象に残るように
感じます。
ネットで検索してみたら、芙蓉はもともと中国では蓮の花のことだったそうで
吉祥天も蓮を持って描かれるので、それからどちらも美女のイメージのため、
<かぶって>しまっているように思いました。単語の位置を離せばどうかなぁ、とか。
Posted by 砺波 湊 at 2012年09月13日 18:32
「歌を詠むということは、何かを思って詠むわけなので、『思う』なり『想う』と納めるのは、言わば分かり切ったことを述べているのであって、やめた方が良い」ということは歌評でよく言われることなのではないかと思います。もちろん例外もあって、砺波さんが述べておられるように「AにBを想う」のAとBに意外性があるとか、何かそこにオッと思わせる工夫があるとしたら、この限りではないのですが…
また、「AにBを想う」と言うと、作者の想いの印象が淡くなり、延いては一首に弱さが生じるので、「AはBである」と断言するという方法もあるかと思います。逆に言うと、作者の想いの淡さを表現しているとも取れますが…
この歌には、「八月の庭を盛りと(咲いている)一日の芙蓉の花…」というように、省略された部分があると思います。それは良いことなのかどうか?
「一日の」だけで、「一日だけ咲いて夕方にはしぼんでしまう」ということを言いおおせているのかどうか? といったことを考えました。
この「一日」ですが、例えば作者が「ある一日、庭の芙蓉を見続けた日があって、その日に吉祥天を想った」という意味ではありませんよね? 文章の構成からすると、そう取れないこともないと思うのですが…
Posted by 大室ゆらぎ at 2012年09月16日 06:37
ちょっと不思議なのですが「庭を盛りと」という言い方がなんだかよく分からない表現のような気がして。
八月の庭に(今を)盛りと(咲き誇る)
庭に八月を盛りと(咲き誇る)
というのなら分かります。
推測ですが「八月の庭に咲いている現在の状況を盛りとして」という意味だろうと思うのですが、言葉が省略されすぎではないかということ。
さらに言葉が小刻みにいっぱい入っていて、一首が窮屈に感じられます。「八月」「一日」は要らないかも。
芙蓉も吉祥天も美人ですよね。余計なものを削ってそのふわっとした美しさだけ強調してもいいのではないかと思えました。吉祥天が手にしている如意宝珠は伝説や中世の物語に出てくることが多くて寿福の象徴みたいなもの。こういう内容の歌は、歌の調べもほんわかしている方がいいように思うのです。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年09月17日 11:56