この記事へのコメント
「ユリウール」というのは、「製本・装丁」。ただしくは「再製本」というような職業だそうです。『ルリユールおじさん』という、いせ ひでこの本のヒットも相俟って、こうした作業がカルチャー講座でブームになっているのでありましょう。職業というより、セミプロ、もしくはアマチュアの「ユリウール展」でありましょう。

この作品、どこが「夏」かというと、もちろん「桐の花」です。

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外(と)の面(も)の草に日の入る夕
君かへす朝の舗道さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

『桐の花』では、こうした作品が引用されやすいですが、歌集名は季題としては夏。
しゃれた按配です。

北原白秋『桐の花』(東雲堂書店)大正2年1月25日初版には、14枚の別刷貼付されているカットあるようです。私は見たことがないのですが、作者は「復刻版」でそれを見たことがあるのでしょう。いかにもバラバラに散逸しそうなカット。これと「ユリウール」との按配も絶妙。

かすかな疑義。「懐かしむ」というのは、たとえば生家・実家にあって、今は手元にないという意味なのか?
もう一点、短歌の中に「友」という語が使われると、たとえば「あなた」「きみ」あるいは「父・母」「兄・姉・妹・弟」などに比べて、いかにも「世間的」というか、一気に「世間話」ふうになると、私は思います。なぜでしょう?
Posted by 西王 燦 at 2012年09月07日 21:17
装丁のルリユールreliureには、「ユリウール」という表記もあるのでしょうか?? いづれにしても、もともとフランス語の音をカタカナで表記しているのであって、「ユリウール」というのもアリなのかな?とは思うのですが、普通は、「ルリユール」と言うと思います。「ユリウール」と言っているエコールがあるのでしょうか??
日本でルリユールが一般的に知られるようになったのは、栃折久美子『モロッコ革の本』(筑摩書房 1975年)がひとつのきっかけだったのではないかと思います。この本で栃折久美子は「ルリユール」と表記していました。製本する人は relieur。
友が「桐の花」の復刻版を美しく製本し直した作品を展覧会に出品していた。
作中主体はそれを見て「懐かしむ」わけですが、懐かしんでいる対象は、以前に所有していた復刻版なのでしょうか? それとも以前に「桐の花」を読んだ記憶のこと? あるいは初版のことを言っている?
その辺りがはっきりしないように思うのですが…
Posted by 大室ゆらぎ at 2012年09月10日 20:27
西王さんの述べておられる「友」について考えてみました。「友」という言葉を使うときのひとつの難点は、作者と「友」との関係が、親友と言えるほど近しいのか、ふつうの友達なのか、年齢が近いのかそうでないのか…等々の情報が、作者にとっては自明であるにも関わらず、読者にはまったく分からないということではないかと思います。読者はその「友」像を思い浮かべることが出来ず、それが作品を読むときの隔たりになる。逆に言えば、何らかの像を思い浮かべることさえ出来れば、それが取っ掛かりになる。
この歌の場合、思い切って「友」は抜いて、「懐かしむ」の内容(どう懐かしいのか)を「桐の花」と作者の関係に絞って詠んだ方が迫力が出るのではないでしょうか? 友の作品であるということについては、別に一首詠んでも良いわけですし。
Posted by 大室ゆらぎ at 2012年09月23日 18:25
西王さんの書いておられるように「友」があるとこの歌が世間的になる、というのは成程なあ、と納得させられます。大室さんが「友」に拘っておられるのも、この歌の「友」がなんだか安易に用いられているような感じがするからでしょうか。この歌の「友」が大した「友」ではないような気がするのです。「友」ではなく、ただの「お仲間」ではないか、と。
友とお仲間とは違うんですね。お仲間に取り囲まれている女の人はなぜか世間的な感じがします。――---というようなことを前評者お二人のご意見読んで感じたのですが、大室さんの書いておられるように、友のことは別にされた方がいいかもしれません。
Posted by 田宮ちづ子 at 2012年09月24日 13:48