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かつて私を起こした蝉の子供が、七年の幼虫期間を経て、また父さんと同じように私を起こしているの? というその気の利いた、穏やかな語りかけ方がいいです。
アブラゼミ・ミンミンゼミは幼虫期間は約七年と言われていますが、その期間ははっきりとはしないそうですし、この歌自体が想定によるものですので、七年前、と断定せずに、七年くらい前、としたのもひっかかりを生まずに読める仕組みになっています。
初句からベランダに蝉が〜と順接にしないで、いきなり語りかけから入っているところも、読者になんだろう? とまず謎を持たせて、上手いなと思います。
「ベランダの蝉」は「落ち」ですから絶対必要な言葉なのですが、なぜかとって付けたような印象を受けます。小話の「落ち」に過ぎないじゃないかという気がしないでもないです。それにこの「蝉」はなんだか鳴いている感じがしないのです。主体の眠りを覚ますくらいけたたましくびーびー鳴いているはずだと思うのですが、この蝉、ベランダでころんと転がっているみたい。せめて「蝉が鳴いている」ぐらいは言った方がいいような気もしました。
また、上の句、高澤さんの仰るように「七年くらい前」とする方が現実としては正確なのでしょうが、短歌の世界って現実的虚構、もしくは虚構的現実でもあるのでここは「七年前」と断定しても詩的世界はゆるがない。「かも」もなくしてしまうと、
七年前あなたのお父さんにおこされた
という断定的表現になりますが、こういう表現で持っていくのもありうるのではないかと思えます。ただし、語りかける口調の魅力は消えますが。どちらがいいかは好みの問題ですが。
蝉はベランダにすでに死んで転がっているか、鳴かずにとまっているかです。それを7年前には自分の夫が見つけて「ベランダに蝉(がいるよ)」と作者に教え、今は二人の間に生まれた幼い子供が同じセリフで母である作者に教えるというものです。
蝉に語りかけている、という読み方もできるんですね。
私に興味があるのは、岩下さんの解釈です。
「それを7年前には自分の夫が見つけて「ベランダに蝉(がいるよ)」と作者に教え、今は二人の間に生まれた幼い子供が同じセリフで母である作者に教えるというものです。」
寓話的な作品を、身近な人間関係として捉えるのも短歌の王道。起こされた相手が「蝉」か「夫」かという解釈の違いは、おそらく、それぞれの「作風」の違いにも表れているのだろうと想像します。
しばらく来ないうちに作者名発表になってしまっていました、すみません。
歌の主人公は、朝早くベッドの中にいるか、座布団を二つ折りにして昼寝しているかまでは考えておかなかったのですが、眠っていた人で、
それをベランダで鳴き始めたセミによって起こされたシーンのつもりで作りました。
七年前(というかワタシの場合、毎年こんな経験をしているので)には今いるセミの父親(かもしれない)が自分に同じようにしたなぁ、と思い出した…ところを描いたつもりです。
目覚めてすぐにベランダにセミがいるとわかるのはウソっぽいかなーと自分でも考えていました。
人間の誰かに「ベランダにセミ」と起こされたのなら、セリフっぽく見せるように工夫するとか、いまそれを言っているのは誰か(息子・娘etc)をわからせるように作るかなーと思います。
といいますか、ワタシの手腕では登場人物(虫)3名も一首に登場させられないので、避けてしまいそうです。