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制服は高校生、もちろん性的交渉はある。結婚は法的には問題ないが、倫理上しないと言っている。エエとこ取りではあるが、もう一度「いとこ」を「をとこ」に変えて読み直して欲しい。
男性諸兄には納得できる筈である。
夏座敷とは俳句の季語にもなっていて、田舎の広々とした夏のしつらいをした座敷が想起されます。都会の冷房のある空間ではない。そこに
親戚のいとこが遊びに来た。中学生か高校生かは分かりませんがまだ無邪気な女の子です。暑い暑いと言って制服をぱっと脱いで下着姿で無邪気にはしゃいでいるという光景が浮かんできます。それを見ている作中主体はまだ若い青年でしょうか、ちょっと戸惑ったようにそれを眺めている。その心境が下の句「けつこんできるがせぬのがいとこ」ということになります。このひらがな表記は効いていますね。呪文のようであり、また主体の自分に言い聞かせている呟きのようです。
従妹とは結婚できる対象です。とすればそこにはセクシュアリティが介在してきます。従妹が結婚対象であるとすればこの無邪気な少女も万が一将来の自分の恋愛対象となる可能性も浮上してくるわけです。しかし、この少女、妹といってもいいような肉親の少女がはたして性の対象となるのだろうかという思いも同時に生じる。従妹とはセクシュアリティを帯びつつもまたそれを排除するような対象でもある、という微妙な心境が作中主体にあるのではないでしょうか。
表現もこなれていて、完成度も高くうまい歌だと思いました。たかた゛さんのような解釈もありうるとは思うのですが、ばかげています。
みなさんは、どう解釈されますか。
「ばかげている」とまでは書かないほうがいいですが、キイ・ワードは「夏座敷」です。いかにも田舎の旧家。この空間の雰囲気を知る者も少なくなっています。マンションの、クーラーのきいたダイニングキッチンではない。「夏座敷」には父母叔父叔母、さらには祖父祖母曽祖父曾祖母の亡霊までもがいて、涼しい。
たとえ制服少女がブラを外しても、私なら手は出さない。
作中主体は、年頃の女子中高生あたりと読みました。回想かも知れません。「夏座敷」という言葉は、回想を思わせるところがあります。
「夏座敷」で着替える。誰かの視線や気配があるのかも知れないし、ないのかも知れない。それらがまったくないとは言い切れないのが日本家屋であり、「夏座敷」です。時間については何も述べられていませんが、帰宅して着替えると思うので、長い夏の午後の、まだ日のある時間帯。
自分が服を脱ぐことを「脱ぎ落としたる」と表現する。そこには、若い娘の自愛が感じられます。「夏座敷」で服を脱ぎ、脱ぎ落とした服がすっと肌に触れる、微かに性的と言ってもいいような感覚。彼女には気になる従兄弟がいる。その従兄弟は同じ家のどこかに今いるのかも知れないし、そうではないのかも知れない。何か理由があって、その従兄弟とは恋愛関係に入れそうもないことが分かっている。そこで「けつこんできるがせぬのがいとこ」と呪文のように呟く。そう呟けば、自分を納得させられるかのように。ちょっと切ないけれど、その切なさもイヤではない。
恋愛もまだなのに結婚まで考えてしまうところがいかにも乙女ではありませんか。
作中主体の解釈が前評者の方々とは逆になってしまいましたが、私も傑作だと思います。
田宮さんの読み方も青年を主体として読んだ場合の機微をよく伝えています。
オトコというものは、たかださんも私も、ついつい「エエとこ取り」を急ぐ。
やはり、反省もこめて、今回の歌会の白眉だと思います。