この記事へのコメント
 カンボジアから参加します。
 この歌が一番普通につくってあり、読んでごく自然に受け入れることができました。

 私は短歌について、かなりストイックな方なので、「どどどッと」と「また」は、ない形にしたいです。
 旧かなみたいだし、「ッ」は、一字だけ急にカタカナになって目立ちすぎるので、(たぶん最初に作者が考えた形であるとおもわれる)ひらがなのままで「つ」にしたいです。
 
 逆に、「書(ふみ)」のところは「書(ふみ)」ではなく、直接タイトル名を出したいし、「落つる」は「落ちし」にしたいです。「書」を「ふみ」とルビをふるのは、無理があるとおもいます。
Posted by 山寺修象 at 2013年02月07日 19:20
【選歌集計結果=2票】
【投票者=西五辻芳子/弘井文子】
Posted by ネット歌会集計担当 at 2013年02月08日 11:13
 どどどッと屋根より雪の落つるおと書(ふみ)読むわれをまた驚かす

わたし自身、少しばかり雪の降る地方に住んでいますので、経験があり、共感しました。
山寺さんご指摘の初句「どどどッと」は、わたしは面白い表記だと思います。わたしの祖父母はこのように書いていましたので、なつかしく楽しく感じます。少しお茶目でもあり、好もしく感じます。
結句の「また」については「雪ずり」の音は、確かに何度聞いても驚きますので、気持ちは分かりますが、わたしもない方がすっきりするように思います。
「書」についても、山寺さんに同じです。
Posted by 弘井文子 at 2013年02月09日 09:41
どどどッと屋根より雪の落つるおと書(ふみ)読むわれをまた驚かす

 弘井さんと同じく雪のつもるところに2年前に住んだ経験があり実感がありとらせて頂きました。
急に前触れもなく遠くで花火のあがったような破裂音で、夜寝入る前など慣れなくて恐ろしかったです。
山寺さんのおっしゃることに私も同感ししばらく考えていましたが、

どどどつと屋根より雪の落ちし音ふみ読むわれをまた驚かす

といたしてみましたが、文語新かなでかかれる方もいらっしゃいますので、初句は原作でも構わなくなって
きていますが、出来れば、「どーん」や「どど」のような音でなく、もっと新鮮な意表をつくオノマトぺにすればより臨場感がでたと思います。結句は原作のままでいいと思います。
Posted by 西五辻芳子 at 2013年02月12日 07:01
「蛍の光 窓の雪 書読む月日重ねつつ」
……、というような用例もありますので、「書」に「ふみ」のルビもいいではないか、という気もするのですが。あまり厳密にすると言葉の豊かさもなくなるように思うので。
「書」は、文献、資料、漢籍などの感じですね。
Posted by 田宮ちづ子 at 2013年02月13日 06:47
この冬はとても雪の多い冬です。
雪国ではないのですが、東京に降雪があった時、その3〜5倍の積雪になる地方に住んでいます。
屋根から落ちる雪の音を初めて聞いた時は、世の中が終わってしまうかと思うほどの爆音に慌ててしまいました。何度か体験しても、その都度「大雪崩」「崖崩れ」「落雷」「衝突」最近では「大地震」等々、衝撃的な音に驚かされています。
「どどどっ」の具体的な感じ方を知りたいと思いました。
「書」をふみと読むのは無理があると思います。
「本読む」でも「茶を飲む」でも何でもいい、普通のことをしていた時に、屋根の雪が落ちる衝撃音をオノマトペではなく、言葉でどう伝えるかが大事だと考えます。
Posted by 庭野 摩里 at 2013年02月20日 22:05
「書」を「ふみ」と読むのに無理がある、という意見が多いですね。不思議です。なぜそう思うのでしょうか。理由が知りたい。一般的ではないから?
「ふみ」の漢字表記「書」は辞書にも載っています。ただし「当用漢字音訓表外」としてですが。詩歌の表現は、当用漢字だけでするのはかなり苦しいでしょう。
Posted by 田宮ちづ子 at 2013年02月21日 05:49
 書を「ふみ」と読むのを肯定するか、しないかは、厳密にいえば、各個人の自分自身の短歌に対するスタンスの問題だとおもわれます。
 鷗外や漱石が日記に「午後は半日、書(ふみ)を読みたり。」書いても変ではないとおもわれます。
 現在の短歌人の仲間が、短歌作品の中に「書(ふみ)読むわれを〜」と書いた時に、読者として、あるいは作者の立場で・自分自身の問題として受け入れられるかどうかが、問われることになります。
 自分の短歌における文語を、明治時代も含めた(やや古い時代の)文語としてとらえている人にとっては、受け入れられる確率が高いのではないでしょうか。


Posted by 山寺修象 at 2013年02月21日 14:22
山寺さんは、問題をすり替えていますね。私が問題にしているのは、そういうことではないのですよ。

「書を読むわれ」というのは確かに古風で文人的ですね。主体は雪に埋もれた日々、静寂な読書三昧な暮らしをしているかと思われますが、なにか良寛さんのようですね。この静寂を破って雪の落下の音がする。主体の暮らしをちょっと古風に表現することで、ある効果が生まれているかも。現代の表現には古臭いも新しいもないように思います。

私は、「書」のルビとして「ふみ」は「無理ではない」「間違いではない」と言いたかっただけなんですけどね。
Posted by 田宮ちづ子 at 2013年02月22日 11:36
 「山寺さんは問題をすり替えていますね」と書かれたら、それこそ非常に心外です。「なぜそう思うのでしょうか。理由が知りたい。」とみんなに投げかける書き方をしているのは田宮さん自身です。
 あなたこそ、問題をすり替えて、私に対して非常に失礼な書き方をしていますよ。

 「私は「書」のルビとして「ふみ」は無理ではない」「間違いではない」と言いたかっただけなんですけどね。」というのが結論なら、それだけを書くべきでしょう。

 「「書」を「ふみ」と読むのに無理がある。という意見が多いですね。不思議です。なぜそう思うのでしょうか。理由が知りたい。一般的でないから?」なんてくどくど書かないで欲しいものです。

 今回は、本題には入らない書き方ですみません。
Posted by 山寺修象 at 2013年02月22日 22:43
いろんなご意見が出ていますが、原作のままがいいと思います。雪国の生活を知らないものにも状況が伝わりますし、古い感じもしません。作者の言葉への感覚を大事にすべきではないでしょうか?詩的で素敵な歌だと思います。
Posted by さとうひろこ at 2013年02月23日 00:25
 普通に読解力があれば、どのコメントを書いた人も「「書」に「ふみ」とルビを振ることが間違い」とは書いていないことがわかるはずです。
 短歌の批評・一首評は日本語の間違いを指摘し合う場ではなく、もっといい歌にするにはどうあるべきかを研鑚しあう場だからです。そこのところを田宮さんだけが、勘違いしておられるのではないでしょうか。
 「無理がある」という意見は前回書いたニュアンスのほかには、「ふみ」の漢字として
圧倒的に「文」があてられているからです。もし、日本語に「文(ふみ)」という漢字が存在していなければ、誰も「無理があるのでは」とは、いわないでしょう。
 あと、「書」に「ふみ」という読みがあることもだれも否定していません。
 田宮さんの「東洋漢字音訓表」うんぬんの意見には同感します。
 しかし、「辞書にあるから正しい」というような感じの意見には私は同調しません。
 旧かな使用の人は、すでに、内閣告示の「現代かなづかい」や「現代仮名遣い」とは違うかなづかいをしているし、「通用漢字」や「当用漢字音訓表」よりもっと広い範囲で漢字を使用しているし、辞書にない語を使用する人もいるし、日本語を「造語」する人もいます。

 話は変わりますが、日本には漢字伝来の前には文字がなかったので、文字も本も手紙もなかったことになり、「文(ふみ)」という言葉は1600年くらい前の日本には、なかったことになり、日本語としては、比較的新しいことばなのだと気がつきました。
 

Posted by 山寺修象 at 2013年02月23日 18:46
「書」のルビとして「ふみ」でまったく違和感ありませんでした。この歌も原作のままがよいと思いますし、古臭くもありません。むしろ静かなたたずまいの中で、どちらかと云えば若い女性が本読む姿と大きな音に驚くシーンをイメージしました。好きな歌の一つで、こちらを選んでもよかったのです。
Posted by さとうひろこ at 2013年02月25日 15:05
恐縮ですが、追加します。
「書(ふみ)を読む」と「文を読む」「ふみをよむ」では、この歌の意味が根本的に違ってくるのです。これを考えないと、この歌は解釈できません。
Posted by 田宮ちづ子 at 2013年02月25日 18:26
山寺さん、あまり感情的にならないでくださいね。
ちょっと議論にもならないテーマで、そういう具合にかっかとするのはどうしようもないでしょう。
これは議論するほどのものではありません。
Posted by 田宮ちづ子 at 2013年02月25日 18:29
 みんなに問いかけたい、尋ねたい、教えてほしい、というよなことがあれば、「本題とははずれますが〜」と普通に問いかければいいのではないでしょううか。

 あげ足をとるように感じられるかもしれませんが、「文(ふみ)を詠む」あるいは「文(ふみ)読む」にした方がいい、という意見も誰も書いていないです。
 
 私は感情的にはなっていません。

 田宮さんの歌の読みは別にして、文章の読みはちょっと甘いです。書いた人が書いてないことを、自分で考えて受け取りすぎています。

 ルビに関しては、自分の歌のルビについてしっかりしたスタンスをもつことが大事だし、自分の歌にどういう読者を想定するかということも微妙にかかわってくるようにもおもいます。
 どういうスタンスであっても、基本的には間違いということはないとおもいます。



Posted by 山寺修象 at 2013年02月26日 09:07
先日来の山寺修象さんのコメントに対する
田宮ちづ子さんのコメントについて、幹事間の協議の結果、
悪気があるかないかは関係なく、結果的に
批評以外の部分に不適切な部分があったと判断いたしました。

ルビの件はここまでとし、以後この件に関する書き込みは
どなたさまも非承認とさせていただきます。
これに伴い、2013/02/26 10:00 の山寺さんの
コメントも削除させていただきました。

なお20番の歌に関するコメントそのものは引き続きお願い申し上げます。
Posted by 短歌人ネット歌会幹事 at 2013年02月28日 11:00
選んでいただいた西五辻さん、弘井さん、ありがとうございました。また評をいただいた多くの方々ありがとうございました。また幹事の方には協議までさせてしまいまして恐縮でした。でも僕の歌を材料にして、やや勇み足気味なところがあったにしても、かくも活発なる議論をしていただいたこと作者としては有り難く思っています。
問題の「書(ふみ)」ですが「本」にするか「書(ふみ)」にするかさんざん迷いました。
結局、「本」にすると僕の歌として何かしっくりこないものがあり最後に、やや気取っている(あるいは飾っている)とも思いましたが、自分の歌としては「書(ふみ)」の方がしっくりくると思いこちらを選んだのでした。田宮さんの「「書を読むわれ」というのは確かに古風で文人的ですね。」という言葉や山寺さんの「
自分の短歌における文語を、明治時代も含めた(やや古い時代の)文語としてとらえている人にとっては、受け入れられる確率が高いのではないでしょうか。」という言葉を読みなるほどと納得したことでした。
一方、さとうひろこさんはまた少し違った感じで読んでいただいたのかなとも思いそれはそれで、手前味噌ですが有り難いことでした。いずれにしても今は「書(ふみ)」を選んだことに満足しています。

Posted by 永井秀幸 at 2013年02月28日 11:47