この記事へのコメント
>映る日に目を細めつつそろそろとわれらが運ぶ水の鉢はも

以前、似たような情景を詠った短歌を読んだことがありますが、そのシュールな印象が強くて、今回も思わず目をひかれた一首です。以前読んだ歌では、登場人物がひとりでしたけれど、この歌では「われら」となっているので複数の人物で水を運んでいる訳で、それにより儀式のような雰囲気が、より増している様に思います。「はも」の旧い詠嘆の言葉が、その感じを一層強めています。「そろそろ」が少しゆるい気がしますけれど。
鉢の水に日差しが反射しているので、日の高い時間と思われます。謎の一首です。

Posted by 弘井文子 at 2013年05月10日 16:28
大きな鉢に張った水をこぼさないようにゆっくり運ぶ様子が見えるようです。水面に反射する光の眩しさもよくわかります。弘井さんが儀式のような雰囲気とおっしゃっているのに同感します。前後の歌によって面白いドラマ性が出てくるのでしょう。不思議なところに魅かれましたがこの1首だけでは採るに至りませんでした。
Posted by さとう ひろこ at 2013年05月25日 23:53
映る日に目を細めつつそろそろとわれらが運ぶ水の鉢はも

前評お二人の書かれた、シュールさ、不思議さに、私も惹かれました。
うた全体が人生の暗喩としても読めます。

二人で持つ水に満たされた鉢。慎重にゆっくり運ばないと、水がこぼれてしまう。
一人では運べない大きさの鉢の重さなのかもしれません。
きらきらと映える日の輝きを、眩しく美しいものと感じながら、運んでいるのです。結句の「はも」にその水に満たされた鉢をふかくゆったりと慈しむような思いが、表現されていると感じます。

眼目は、ふたりで運ぶ鉢のに移る輝きえであると思います。二人であるからこそおきる波紋の複雑な輝きや揺蕩いの妙を、作者は自身がおそらく最も美しいと感じているそこを、敢えて表面に出さずに、歌の奥に込めたのではないでしょうか。
Posted by 梶崎恭子 at 2013年05月27日 15:54