この記事へのコメント
鯉のぼりが空を泳いでいるのを見るのは気持ちがいいですね。
どこかの村か町の昔から風習であったものを真似して川に渡したロープにたくさんの鯉のぼりを泳がすイベントをよく見かけるようになりました。
この光景もそういう町のものでしょうか。
鯉のぼりも季節以外はたたまれて窮屈な入れ物に入っているのかもしれません。
それが今だけのびのびと空を泳いでいる。
2句までの「束の間の開放感に浸りつつ」は鯉のぼりを擬人化して言っているのですが、この光景に作者の心情が重なって見えます。
Posted by 海野 雪 at 2013年05月08日 20:09
 上の句の主語は、鯉幟という前提で書きます。
 作中作者ではない主語が、省略されたまま、あるいは倒置(法)の結果として記されないまま、述部が第3句まで続くのは、短歌の形として基本的には、非常にマズイとおもいます。
 読者は、第1句から第3句までをを読み終えるまでの短いあいだ、ごくしぜんに「主語がないから主語は作中作者だろうな、きっと」とおもいながら読みます。
 耳で聴く場合は、もっとマズイです。

 厳しくいえば、この歌の場合、上の句の内容はすべて無い形の方が、よりいい歌になりそうです。
Posted by 山寺修象 at 2013年05月09日 08:22
前評の山寺さんのご意見だと、倒置的な技法が否定されてしまうように思うのですが?

束の間の開放感に浸りつつ鯉のぼりの群れ川面を泳ぐ

私は、すがすがしい季節感あふれる技巧的な、上手いお歌と感じました。
投票しなかったのは、今回は「季節や自然」を詠う歌でない括りのグループの歌を選んだからです。

下句が言い得ていると思います。特に結句「川面を泳ぐ」に惹かれました。ニュースで毎年見る光景。
たくさんの鯉幟が川岸から川岸に張られたロープにつけられて、風をはらんで泳ぐ様子が
ぱぁっと心に広がりました。
鮮やかな色彩あふれるその姿は、新緑に包まれた川面にも映っているのです。
その場を吹く風の強さや、五月の陽光までが「川面を泳ぐ」から顕ってきます。

これは狙いすまされた結句で、成功したお歌と思います。

Posted by 梶崎恭子 at 2013年05月10日 11:01
私の住んでいる愛知県には、鯉のぼりを川面に渡すのは伝統なんだそうで、作中主体は作中作者と鯉のぼりの両者かと思いました。

未成年か否かというころに駅のホームに上がったらスカートが風をはらんでしまった、という習作的なものを出したことがあり(『ナグネタリリョン』に触発されたのです)印象批評というか、体感批評しかできないので、他の意見を待ちます。
Posted by ふゆのゆふ at 2013年05月10日 12:51
昨日の『遠くへ行きたい』で日本一の清流となった高知県の仁淀川で、本当に鯉のぼりが川を泳ぐ光景を見ました。
町の名前を忘れてしまいましたが、和紙の産地の町で和紙(不織紙)で作ったたくさんの鯉のぼりに重石をつけ川を泳がします。
本当に鯉が泳いでいるように見えて素敵な光景でした。
作者はきっと梶崎さんが描いたような風景を詠っているのでしょうが、本当に川を泳いでいる鯉のぼりも気持ちよさそうで、この歌とぴったり重なりました。
Posted by 海野 雪 at 2013年05月27日 05:03
を泳ぐ光景を見ました。
町の名前を忘れてしまいましたが、和紙の産地の町で和紙(不織紙)で作ったたくさんの鯉のぼりに重石をつけ川を泳がします。
本当に鯉が泳いでいるように見えて素敵な光景でした。
作者はきっと梶崎さんが描いたような風景を詠っているのでしょうが、本当に川を泳いでいる鯉のぼりも気持ちよさそうで、この歌とぴったり重なりました。
Posted by 海野 雪 at 2013年05月27日 05:24
今回コメントをいただきました皆様ありがとうございました。
季節がら鯉のぼりの歌を提出してみたのですが、いつのまにかその季節もとうにすぎてしまって改めて時の流れの速さを実感しています。さて、山寺様に指摘していただいた部分については言い訳になるかもしれませんが、「基本的に短歌の形として基本的には、非常にマズイ」と一般に言われていることを承知の上、その殻を破ろうと思ってあえて今回この歌を提出しました。海野様、梶崎様にコメントしていただいたように、近年この季節にテレビでよく見る鯉のぼりを川に渡す美しい光景を思いながら鯉のぼりを擬人化して自分の気持ちと重ね合わせようとしたつもりで、作者の私としてはふゆの様の言われるように作中主体は作中作者と鯉のぼりの両者と想定していました。
もう一度いただいたコメントをよく反芻しながら今後の作歌の参考とさせていただきたいと思います。
Posted by 照井夕佳詩 at 2013年06月01日 07:55