2013年11月01日

第17回ネット歌会詠草/25

目もりのない定規みたいなきしめんを割らない程度にしならせてみる

【選歌集計結果=6票】
【投票者=梶崎恭子/花鳥 佰/さとうひろこ/たかだ牛道/竹田正史/光本 博】
posted by 短歌人会 at 00:05| Comment(9) | TrackBack(0) | 第17回歌会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
乾燥きしめんでしょうが、確かに定規ぐらいの長さがあります。実際に長さが分かれば目もりはなくとも「きしめん一本分」というふうに長さを測れそうです。ある程度幅のあるきしめんでなければこのような形容は出てこないと思われ、そこが面白いです。

料理の最中なのかもしれませんが、手持ちぶさたでしならせてみるというのはよくありそうです。

パスタは割って使ったりしますが、割るのは残念だったりします。しかし、割れるか割れないか微妙なところまでしならせてみるのが楽しいともいえます。
Posted by 光本博 at 2013年11月07日 18:45
まさに定規を思わせる幅広いきしめんを見て驚いた時のことを思い出しました。「へー」と感心しながら折れない程度にしならせてみました。経験通りの歌に出会いクスリと笑いました。
Posted by さとう ひろこ at 2013年11月08日 13:46
>目もりのない定規みたいなきしめんを割らない程度にしならせてみる

そんなに幅広なきしめんがあるのですねぇ。わたしはまだ出会ったことがありません。お味は同じなのでしょうか。
お二人のコメントを読んでいて、そんな幅広のきしめんに出会うと、誰もがしならせてみたくなるのかと、面白く読みました。
ところで、「割る」と言うのはきしめんの幅に沿って、ではなく、直角に短くなる方向に切れる、ってことでしょうか?
Posted by 弘井文子 at 2013年11月08日 16:30
乾燥麺を短くなる方向に直角に折るということだと思います。
Posted by さとう ひろこ at 2013年11月09日 16:34
比喩の面白さと、子供の頃、よく定規をしならせて遊んだ遊びごころを失わない作者に
好感を持ちました。
Posted by たかだ牛道 at 2013年11月10日 08:26
しつこく。
「割れる」が少し違う気がします。確かに太くて幅広いものに罅が入って割れてくるのでしょうけれど、きしめんと言えど麺類なので「切れる」じゃないかと言う気がするのです。
Posted by 弘井文子 at 2013年11月11日 08:24
横から失礼します。

これは乾麺と思われるので(生麺もしくは茹で上がった麺なら「定規みたいな」とは形容しないでしょう)、「切れる」は違う気がします。「折れる」ならしっくりきます。

 ですが、作者はおそらく、「折れる」ではありきたりと感じて「割れる」にしたのではないかと思います。

 ちなみに麺類(特にパスタ)は、まとめて折れば二つに折れますが、一本だけ折ろうとするときに、三つに折れてしまうことがあります。

 作者がそのあたりを踏まえているとすれば、「割れる」としたのはそれなりに当を得ている気がしました。「割れない」ではなく、「割らない」としているところに、そのあたりの認識を感じるのですが。
Posted by 生沼義朗 at 2013年11月11日 10:48
生沼義朗さん、「切れる」ですね。「折れる」は自分でも違うなと思いつつ書いていました。
Posted by 弘井文子 at 2013年11月17日 16:06
目もりのない定規みたいなきしめんを割らない程度にしならせてみる

初句二句「目もりのない定規みたいな」の表現が言い得ていると思います。たしかにプラスティックの定規を、しならせたりしていたとリアリティを感じました。四句「割らない程度に」がまた面白いと思います。初句二句と四句のユニークな表現が、インパクトを強くしています。
「割る」の表現は、半分乾いた生麺のイメージを喚起させられ、私は抵抗を感じませんでした。

特筆すべきは、結句の「〜てみる」ではないかと思います。これが作中主体のどこか冷めた目を感じさせ、効いていると感じます。内容的には、ほぼ意味のない行為を詠んでいるのです。それを自覚しているかのような、覚めた視点を、この歌に与えているところが、面白いと思います。

Posted by 梶崎恭子 at 2013年11月22日 23:23

この記事へのトラックバック