この記事へのコメント
>人生の折り返しから数キロを歩いてもなほ君を思へり

「人生の折り返し」地点、あるいは時点、ってどのあたりでしょうか。わたしはもう過ぎちゃってますが、世代によって感じ方には多少の違いがあるかもしれません。
作者は、もうすでに過ぎたと感じている。青春のエネルギッシュに人を思う時代は過ぎ去ったと感じている。それでも「なほ君を思へり」と、君のことを思い続けている作者。SNSなどで簡単に恋愛ごっこができる時代に、一人の君を思い続けることを大仰なことばを使わずに、一首にしているところが良いと思います。「数キロを歩」くという表現からも、作者の着実な暮らしぶりがしのばれて、大人な相聞だと思います。
Posted by 弘井文子 at 2013年11月07日 09:00
この歌は「数キロ」という語がよくわかりませんでした。
「人生の折り返し」はおおよそ40歳ぐらいと想定するのが普通だろうかと思いますが、人生の全行程を道のりに例えるなら、相当のキロ数をイメージするのではないかと思います。
とすれば、「数キロ」というのは折り返してまだほんの少しのところ、と思われます。それと「なほ・・・」がうまく合っていないように思いました。
あるいは、君への思いを人生の折り返しのあたりまで持ち続けるとは思っていなかった、ところが、折り返した後にもなお思っているんだよ、ということなのかも知れませんが、一首からそこまで読み取るのは無理があるように思います。
Posted by 斎藤 寛 at 2013年11月09日 15:29
この作品、投票しておられるのが全員女性というところに(ごめんなさい)ちょっと可笑しくなって
しまいました。
斎藤さんは人生80年として折り返し地点は40歳とみておられます。大方の読者がそう取るでしょう。
だとすると数キロ=数年ととらえるのが一般的ではないですか?
45・6歳っていうと人は仕事や健康など、これから先のことをいろいろ考えるときですね。
ところが作者はそうは思っていないかもしれない。
自分の残年がわからない以上、ここが折り返しとは言えないので、作者の思う折り返しが40代中盤とは言い切れないかもしれない、というもどかしさを感じます。
「なほ君を思へり」という純粋な気持ちはもちろん素晴らしいのですが、それはそれとして、歌として
独白してしまってはどうかな?という思いが残ります。
Posted by 三島麻亜子 at 2013年11月09日 20:57
実際寿命の残りなどあってなきに等しいのですが、そういう意味でなく、年齢的には三島さんの案に近いですね。

若くはないことを知っている。でも今現役バリバリである。ただし、取りあえず800メートル走るとして(平均寿命的に)一周目の第四コーナーだ、ということは知っているという程度の分別の人ですね。

では若き日の思いを忘れ去っているか、形は変わっても忘れえないのです。

この思いを忘れないから二周目を走る気力がわくのかもしれません。「第二の青春へ」
Posted by ふゆのゆふ at 2013年11月10日 12:57
人生の折り返しから数キロを歩いてもなほ君を思へり

「人生の折り返し」は定年退職の日と読んでしまいました。
「世の中の一線を退いた年齢になってしまったが、今でも妻を大事に想っている」あるいは「還暦をいくつか過ぎた年になっても、忘れられない人がいる」という作品かと思い、票をいれました。
一首を改めて読み返すと、「人生の折り返し」って、抽象的で曖昧な表現ですね。
Posted by 庭野摩里 at 2013年11月13日 22:43
「人生の折り返し」となってはいるのですが、マラソンの
「折り返し」地点が浮かびました。「数キロ」を歩いている
という表現からそのように感じました。君はどなたかを
特定しているのか、ゴール地点の事かもしれません。
スタートからゴールまでのマラソンの時間も人生。
「折り返しから」始まって人生が結句にあっても面白いかと思いました。
Posted by 北島裕子 at 2013年11月14日 19:10
桑原憂太郎です。

最近は、折に触れて、もう人生の折り返しを過ぎたよなあ、なんて思うようになってしまいました。
そんなときに、若かった頃のことも思い出したりして、この歌を詠みました。
世の中では、アラフォーなんて言っておりますが、私としては、人生の復路の数キロ地点を淡々と歩いている心境でございます。

コメントをいただいた皆様、ありがとうございます。
丁寧な講評はとても嬉しく、また、これからの作歌の励みにもなりますね。
Posted by 桑原憂太郎 at 2013年11月26日 20:51

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