この記事へのコメント
実際のところ、ちゃんと飼われている熱帯魚は、外の世界を知らなくても不都合はないし、その方がしあわせなのかもしれない。いきなり海に戻されても困るだろう。
「外の世界は知らなくていいよ熱帯魚たち」なら、特にどうということもない普通の歌なのだが、この歌は「水槽」「私の」と限定することで、熱帯魚を自分のところに縛りつけて逃がさないような狂気をはらんで、おもしろくなったと思う。
Posted by 津和 歌子 at 2016年11月12日 20:32
前評者の、一首から熱帯魚を飼う人の心理まで窺う「解」に感心致しました。が、この水槽で生物を飼育するという人の心理はその深層心理に関わる重大な哲学的命題であると、私は思います。
いきなり重々しく始まってあい済みませんが、しばらくご勘弁下さい。
前評者の「狂気」という一点に着目すれば、飼育者は単に見るだけの鑑賞者とは立場が違います。生物の生殺与奪の権を握る絶対者の立場にあるわけです。
非情をなさんと、ヒーターを切る、酸素を断つ、餌をやらない、など、生物の生命を奪うことをいとも簡単にできる立場にある、すなわち「正気の沙汰」でない暗幕の世界に入るボタンを常に持っている、そうした非情のボタンの所持者であるという意識は心優しい飼育者であっても心理の裡に必ずや持っている、わけです。きっと、
前評者はこのあたりの心理をうがって「狂気」を指摘されたのではないでしょうか。

この作者の場合、金魚鉢ほどの、むろん他愛もないものと思います。ただ、その愛好家であったから言うのですが、水質・水温の管理、月一、二回の水換え、病気への対応など熱帯魚の飼育はなかなか大変です。そして飼育が大変であればあるほど、「自分がいなければ」という飼育者の思い上がりもまた増長します。
Posted by かわすみさとる at 2016年11月16日 11:40
私は、大きく現代の社会情勢など知らなくていいよとペットである熱帯魚に言い聞かせているのかなと読みました。

それとも作者自身が抱えている悩みなどで落ち込むことがあっても、大事にしている熱帯魚には、お前たちはは心配しなくていいんだよと言っているようにも思います。
Posted by 馬淵のり子 at 2016年11月16日 15:07
面白い歌だと思いました。
「熱帯魚」を何かの喩と読むことで、多分に寓意性ももちえます。
で、どうして喩として読めちゃうのかなと考えてみると、「私の」がポイントなのではないでしょうか。(津和さんの評に少し重なりますね)。ここで、熱帯魚が所有物であるということが強調される。ただの熱帯魚ではなく、私の(意のままの)熱帯魚、あるいは、ずっと私のものでいる、くらいの意味になる。ここが、この一首の面白さではないでしょうか。
口語でサラリと詠いつつも、短詩のツボをこころえた技巧的な一首と思いました。
Posted by 桑原憂太郎 at 2016年11月21日 21:39
津和さん、かわすみさん、馬淵さん、桑原さん、コメントをありがとうございました。
歌意としては津和さんの解釈に近いです。

水槽に飼っている金魚を眺めている圧倒的存在の人間というシーンをイメージするとき、金魚が人間だとしたらと想像が働いて、自分だけのものとして金魚(女性)を閉じ込めている人間の狂気というイメージがわいてきたのです。
7年間も女性を部屋に閉じ込めていた新潟の事件・最近では2年間中学生を閉じ込めていた事件・・その犯人の狂気。

出来上がってみれば光景そのものではなく寓意として詠った感じです。
Posted by 海野 雪 at 2016年11月27日 07:52
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