この記事へのコメント
現状に満足していて何の不満もなければ「生まれ変わるなら」という言葉は出てこない。何らかの物足りなさがあるのだろう。
しかし「人生をやり直したい」とか「生まれ変わったら花火師になりたい」というほどの強い気持ちはない。花火を見ていて、そういえば花火師という生き方もあったと思い、もし花火師になっていたらどんな人生があっただろうか・・・と想像したりする。
「横顔を花火が照らす」という表現はありふれているような気もするが、「今のあなたもいいよね」という気持ちが伝わってくる。
Posted by 津和 歌子 at 2016年11月12日 22:03
花火師は夜空を飾り、大勢の人に喜びと感動を与える職人さんですね。「花火師もいいよね生まれ変わるなら」と語る作者。ここはわかりやすいのですが、下句の「その横顔を花火が照らす」というところが、誰の横顔を花火が照らすのかがわかりにくく、3つのパターンを考えてしまいました。

 @花火師の横顔 A作者の横顔 B作者と会話している相手の横顔

@だとすると、花火を見上げる場所から花火師の顔は見えないでしょうから、作者は花火師の近くにいて、花火を打ち上げる様子を間近に見ていたということになります。しかし、通常は関係者以外立ち入り禁止区域でしょうからちょっと不自然かなと思います。
もしかしたらテレビのドキュメンタリー番組などで花火師の特集を見て、花火が打ち上がる瞬間に花火師の横顔が照らされるのがカッコよく映っていて「花火師もいいよね生まれ変わるなら」と思ったという歌かもしれません。

Aは、きれいな花火が打ち上がるのを見ていて「花火師もいいよね生まれ変わるなら」と作者が独り言をつぶやいたか、または心の中で思ったかで、その自分の横顔を花火が照らした、というパターンです。誰かに話しかけているなら上句は「」カギ括弧で括るはずですが、それがないのは人に語りかけていないからなのかな、と想像しました。

Bは、作者は誰かと花火を一緒に見ていた。その時、相手に「花火師もいいよね生まれ変わるなら」と語りかけ、横を向くと相手の顔が花火に照らされていた、という歌。これが一番自然な読みでしょうか。

私としては@の花火師の横顔を花火が照らしたというのが、映像として一番絵になると思いましたがいかがでしょうか。
Posted by 鶴羽一仁 at 2016年11月13日 00:34
この歌は、句またがりの不安定のうちに見かけはバランスを保っている歌だ。(前評者の解の分類@Bを使わせてもらうと)、「その」という「代名詞+格助詞」が作者から離れて聞き手に近い関係のものを指示するのであれば、前評者の[B作者と会話している相手の横顔]となるが、上句の後に連語「という」を補えば上句の主体は[B作者と会話している相手]ということにもなるだろう。上句は作者の会話の相手の言葉となるわけだ。またテレビのドキュメンタリーであれば、作者と[その]会話の相手が二人で画面の[@花火師の横顔]を見ている場面とも解しうる。ふと思うのだが、はたして現代は全体このように「どうとでも取れる」時代なのだろうか。 なんだか、こんぐら(こんがらか)かってくる。
Posted by かわすみさとる at 2016年11月13日 05:13
いいですね。「花火師」というところにセンスを感じます。花火師たちの大会は秋に行われます。作者はそれを親しいひととともに鑑賞しているのでしょう。花火を打ち上げる花火師の真剣なまなざし、手がけた花火が夜空に放たれたときの恍惚な横顔……。そういう姿をみて、「花火師もいいよね」と傍らのひとに告げる。ロマンスのあるすてきな歌だと思います。

>鶴羽さん、かわすみさん、
私は、何も考えず、「花火師の横顔」と受け取りました。テレビではなく、実際に目の前にある風景だと思いたい・・・です。
Posted by 鑓水青子 at 2016年11月15日 08:33
問題の「その横顔」

鶴羽さんの整理にならうと、@横顔=花火師説、A横顔=自分説、B横顔=他人説

初読、私は一緒に見ていた人の横顔を読みました。鶴羽さんの整理だとBです。けど、よくよく読み直せば、花火師の横顔ということになりました。鶴羽さんの整理だと@、鑓水さんも、そのように読まれました。

鶴羽さんは、Bが自然な読みとしています。

しかし、津和さんの読みも、ありうる。これは鶴羽さんの整理ならAになるかと思います。

で、こういう多様な読みが許容されるかどうかという議論になるわけですが、かわすみさんは「こんぐらかってくる」と婉曲に仰られておりますが、やはりこれは歌としてはマズいだろうというのが、私の意見です。だって、作者の一首にこめた想いを読者がただしく受け取れないのですから。

おそらく、上句にモノローグがあって、下句に描写があるという構成に無理があったのだと思います。これ、逆の構成なら、結構すっきりした歌になって、作者の想いも混乱なく伝わったのではないかと思いました。
Posted by 桑原憂太郎 at 2016年11月20日 13:18
わたしの読みは、鶴羽さんの整理ならBになるのですが、語りかけているのは自分ではなく、隣で花火を見ている人として受け取っています。
「二人で打ち上げ花火を見ている。”花火師もいいよね生まれ変わるなら”と隣で花火を見ている人が言う。その横顔を花火が照らしていて、自分がその横顔を見ている。」と読みました。

@の花火師の横顔とすると、実際でもテレビでも、花火師は花火を打ち上げているところで、汗びっしょりで真剣そのものでしょう。その人に向かって「花火師もいいよね」という言い方は軽すぎるような気がします。
Aは、自分の横顔を花火で照らしていることになり、それは「横顔」なのだろうか、という疑問があります。
Bで、自分が相手に語りかけているという解釈では、自分が「花火師もいいよね」と語りかけているのに相手はこっちを向かずに花火ばかり見ているようなすれ違いになってしまいます。これはこれでありかもしれませんが、この場合「その」横顔に違和感が生じます。自分が語りかけているとすると、相手の横顔は「その」横顔ではないのではないか。

でも、ここまで書いておきながら、もしB相手が自分に語りかけているという解釈なら、わたしなら「きみの横顔を花火が照らす」にするかな、それをしなかったということは違う解釈かもしれない、とも思います。結論がなく混乱しているままですが、以上です。
Posted by 津和 歌子 at 2016年11月23日 18:49
私も津和さんと同じく読みました。
二人で並んで打ち上げ花火を見ているとき、「花火師もいいよね生まれ変わるなら」と言った相手の言葉に思わずその横顔をのぞき見してしまった、というように読みました。
横に並んで座っている友達・仲間のような感じだった相手を、その無邪気な、意表を突くような言葉から改めて見直し、相聞歌へ発展しうるような可能性を秘めた1首として楽しめました。
Posted by 加藤隆枝 at 2016年11月23日 22:14
様々な読みが出てきましたが、共通しているのは皆さん、この歌から甘美な世界を読み取ろうとしているところでしょうか。私は最初、今回の1番から31番までざっと目を通した中で、実はこの歌が一番印象に残りました。(良い意味でです)いい瞬間を切り取っていると思ったからです。しかし、じっくりと読んでみると状況がわからなくなっていったので、他の皆さんの解釈をお聞きしたかったのです。

作者の想い描いたものは一つなのでしょうが、読者がそこから離れ、自由に鑑賞することはいけないのでしょうか、という疑問も湧いてきました。
桑原さんがおっしゃるように「作者の一首にこめた想いを読者がただしく受け取れない」のは歌として良くないとも思いますし、鑓水さんや加藤さんのように、この一首をすてきな歌として鑑賞し、楽しんでもいいのではないか、肝心なのは読者である自分がどう思うか、この歌から何を感じるかだ、というふうにも考えます。

作者は自分の想いを正しく伝えられるようにしなくてはいけない。これは間違いなくその通りでしょう。
しかし読者は、それぞれ自分の想像力、あるいは体験や記憶などを無意識的にオーバーラップさせて作品を読んでいるから様々な読み方が生じてくるのは当然で、味わい方も人それぞれでいいのかな、と思いつつも明日のコメント受付終了日までに考えがまとまりそうもありませんので、中途半端ですが書き込みいたします。お許しください。
Posted by 鶴羽一仁 at 2016年11月24日 22:28
やはり、出るべきして、出て来ましたね。短歌という短い定型詩の場合、読みは作者を離れて読者の自由であるべきだとする短歌観は、長い歴史と伝統をもっているようです。鶴羽一仁さんの仰りたいのは、そこのところでしょうか。
わたしは短歌を初めて日が浅いですが、以前から、ときおり目にする、この種の短歌観には違和感をもちます。短歌を文学と考えるからです。作者は何のために作品をつくるのか、という点を考えれば、読者は作者の思いを汲みとる努力をするべきではないでしょうか。
価値観の多様な時代ですから、いろいろの考え方があり、作者には作者のものの見方、読者には読者のものの見方があって、それぞれ尊重されるべきであり、それぞれは否定されるものではないですが、かといって作品にある作者の思いなりを無視してはいけないでしょう。
あらゆる芸術作品は(あえて短歌も芸術に含めますが)、同時代に評価はされなくてもよいものは残るとの信念というか前提にたてば、作者は同時代の無理解を承知で創作もできるでしょう。でも、そういう作者はまずありえない。
まして三十一音という短詩型の定型詩では、作者の思いを読者につたえる術は限られています。作者としては、やはり読者を意識して創作すべきでしょう。同じように読者は作者を意識して読むべきでしょう。作品には作者の実際があるわけで、それを無視して作品を読むことは間違いではないでしょうか。やはり作者の実際を無視しての読みには違和感をおぼえます。
Posted by かわすみさとる at 2016年11月25日 06:32
いつにも増して多くのコメントをいただき、感謝に堪えません。ありがとうございます。

以下、種明かしのようになりますが、夏に一緒に花火を見に行った人が、ほろ酔い加減でこう言ったのを歌にしました。本人は言ったことも忘れていそうな些細なことでしたが、花火師という仕事にロマンを感じるのは同感でした。上句はセリフそのまま、下句はテレビの花火でなく本物の花火を見ていたことを言いたくてこのようにしました(実際には暗くて相手の顔は見えませんでしたが)。意外といろいろな読みができてしまうことに、自分でも驚いています。桑原さんのご指摘のように、上下を入れ替えてみるのも成程ですね。
Posted by 亀尾美香 at 2016年11月26日 21:07
鶴羽さん、かわすみさんから、読みについてのご意見もいただきました。私自身も、この歌会に参加させていただくようになってから、いつも考えることです。

自分の歌が意図通り解釈されないのと、自分が他人様の歌を正しく解釈できないのは表裏一体。ある意味どうにもならない部分でもあります。
どちらも、半分は自分の力量不足、半分は相手の自由裁量。そう考えて、常に詠みと読みの力を磨きながら、一方である程度は自由に鑑賞して楽しむのも許されるかなあと、最近は考えます。勿論、お二方がおっしゃる通り、作者は自分の意図を正しく伝えられるようにしなければならないし、読み手は作者の意図を正しくくみ取らなければなりませんが、他人の読みを作者がどうにもできない(または作者の意図を読み手が完璧に読み取ることはできない)以上、ある程度の自由な解釈は許容されるのではと思います。

以上、私見でした。
たくさんコメントをいただきながら、今回はあまり多くコメントできず申し訳ありませんでした。
Posted by 亀尾美香 at 2016年11月26日 21:34
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